連載:第29話 苦難の開発を支えた医療不信の原体験について
 弘美が西ドイツの留学から帰った頃、中川先生のいすゞ病院の近くで、私は交流磁気治療器の開発にのめり込んでいました。これまでも書いてきたように、家族をはじめ私の周りの人間は、すべて猛反対でした。無理もありません。誰が電電公社を退職した技術者に、治療器の認可がとれるなどと考えたでしょうか。しかも開発には、莫大なお金もかかります。黙っていれば年金を貰え、悠悠自適の隠居生活ができるのに、何を馬鹿なことをやっているのかと言われても、世間の常識では反論できません。
 実際、当時の銀行で、定年退職した私のような人間に、金を貸してくれるところなど、一つもありませんでした。今とは違って、医療への信頼感も、まだまだ高かった時代です。難しいことは、お医者さんに任せておけばいいという風潮の中、お前に何ができると笑われても仕方ないことです。しかし、私にとっての医療とは、家族を幸せにしてくれるものではありませんでした。長男を救ってもらえなかった、私自身も糖尿病の薬害で、塗炭の苦しみを味わいました。
 そして何よりも、妻の4回にわたる開腹手術が、医療への不信感を高めました。もし、こうした経験がなければ、自らの手で治療器を開発しようなんて、考えなかったかもしれません。認可を受けるまでの苦しい道のりを支えたのは、医療への不信感と、怒りにも似た気持ちがあったからです。
 最初に妻が異常出血を起こしたのは、弘美が小学校六年のときでした。主治医の話では、「このまま放置するとガンになる可能性が高い。速やかに子宮を摘出した方がいい」ということでした。手術は盲腸を切るのと同じくらい、2週間もあれば退院できるという説明で、ガンの恐ろしさに比べれば、医師の指示に従うのも、やむを得ないことだったと思います。
 義姉に来てもらい、家の面倒をみてもらいましたが、予定よりも延びて、退院したのは35日後でした。ところが家に戻ってからも、一向に妻の体調が優れません。それどころか、小水が膣から漏れると言うのです。何のために手術をしたのか分からぬまま、愕然として再入院することになりました。ここから本当の意味で、病院との戦いが始まることになります。
 いくら説明を聞いても、執刀した医師の話は、要領を得ないものでした。私は直感的に、何かを隠していると悟りました。しかし、当時の大病院で、手術を失敗したなんて認める訳がありません。むしろ彼らの常識では、ひたすら隠そうとするだけです。このまま婦人科にいては、埒が開かないと思い、泌尿器科へ移すようお願いしました。何も措置を施すことができないのに、それでも「認められない」の一点張りで、妻は婦人科から出してもらえませんでした。
 このままでは、妻が殺されてしまう――。私は本当に恐ろしくなりました。まだ子供だって小さいのに、こんなことで死なせる訳にはいかないと焦りました。普通にお願いしても駄目なことは分かっていましたので、こうなったら力づくで奪うしかありません。軍隊時代は上官に斬りかかるほど、理にかなわぬことに対して血の気が多い性分です。細かいことは書けませんが、医者と刺し違えるほどの覚悟で、凄みをきかせ妻を取り戻しました。
 泌尿器科へ移ったあとも、結局は3度、手術を繰り返すことになりました。その経緯は本にも書いた通りです。しかし、あのまま婦人科にいたら、助けることはできなかったでしょう。わずか二年足らずのうちに、4度も開腹した妻は、本当に痛々しい姿でした。愚痴も言わずよく耐えましたが、それだけに、いたたまれない気持ちになりました。
 こうした経験が、私を駆り立てていました。今では医療過誤という言葉もありますが、あの時の私には、助けてくれない医療に対して、自分がやらねばならぬという強い使命感がありました。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠