連載:第1話 波乱の人生のスタート
  私は幼少の頃、現在の中央区京橋1丁目に両親とともに住んでおりました。日本橋の高島屋がまだ京橋にあった頃で、父は高島屋の従業員食堂を経営していました。私の家は、中央通り(当時は市電通り)の西側、東京駅寄りにあり、高島屋は東側にありました。毎日、夕方になるとお風呂に入り着物に着替えて、中央通りの手前まで父を迎えに行くのが日課でした。一人っ子で我がままを言いながら育ちましたが、母が厳しい人で小学校に入学する前、毎日、カタカナとひらがなの五十音を全部書かされました。
 昭和4年、ドイツからツェッペリンという飛行船が飛来しました。その年の8月25日、父は蓄膿症の手術の後遺症により、44才でこの世を去りました。母と2人、東京で生活するのは無理でした。私は小学校4年でしたが、茨城県藤代にある母の実家に身をよせることになり、藤代の小学校へ転校いたしました。
 茨城の母の実家は兼業農家で、叔父さんが国鉄に勤め、あとの人たちは農業をやっておりました。叔母さんがとても優しい人で、私を陰になり、日なたになって可愛がってくれました。なんという優しい叔母さんだろうと思いながら、5人のいとこと共に平和に育てられました。
 その優しい叔母が、私が小学校6年の3月、急性心不全で幼い生まれたばかりの従弟にそえ寝をしたまま、突然死してしまったのです。私は叔母の死が悲しくて悲しくて泣きぬれていました。お葬式に集まった親せきの叔父さんや叔母さんが私の姿をみては「やっぱりしん親は違うね」とささやきあっているのです。不審に思って従兄を問い詰め、私が幼いときに実父の妹、叔母のところに、もらわれていったのだということを始めて知りました。
 母と思っていた人が叔母で、死んでいった優しい叔母が母であったとは……。今までいとこと思っていた5人が兄であり姉であり、弟や妹であったのです。世の中が真っ暗になりました。本人の意志をまったく無視して、両親や兄弟から引き離してしまった育ての親を、うらめしくさえ思いました。
 私は一日も早くこの人たちから離れて、独立したいと思いました。そのため、進学しようとしていた中学校に行くのを止め、小学校6年卒業と同時に独立して上京することを考えました。
 そのときの担任の先生が、羽田通先生でした。先生は「これからの社会にでるには、小学校だけではだめだ。中学に行かないのなら、せめて高等小学校2年だけでも学びなさい」と熱心に勧めてくださいました。この羽田先生の熱意で、私は高等小学校の2年間を勉強することにしました。
 この羽田先生が、いまから20年前、創健B型の1号機をプレゼントした先生です。「胃腸が弱くて長生きできない」と言っていたのに、90才を過ぎた現在も、カクシャクとして人生を楽しんでおられます。この先生がいなかったら、今日の私の人生はなかったと思います。
 突然の実母の死は、私の性格を一変させました。極めて明るい性格が、もの思いに沈む内向的な子供になってしまったのです。死んで優しかったお母さんの側にいきたいと思ったことも、たびたびありました。
 高等小学校1年の担任が、お寺の坊さんの子として育てられた寺西了雪先生でした。元気のない私を優しく見守ってくれていた先生が、ある日の放課後、小貝川堤の散歩に連れていってくれました。私は小さな胸にたたんでいた自分の苦しみを訴え、死にたい気持ちをお話しました。私の話を頷きながら聞いた先生は、「お前はすべて自分のことばかり考えていて、廻りの人の気持ちは何も考えていない。お前の両親も、大勢の兄弟と一緒に育つより、叔母さんのところの一人っ子になって育った方が幸せになるであろうと思ったから養子にしたので、育てのお母さんだってお前を大切に育ててくれたはず。兄弟だって、お前の幸せを願っていたと思う。その人たちの気持ちを何も考えず、自分一人が不幸だと思うのは大変な思い違いだ。世の中には、お前より不幸な人はいくらでもいるんだ。お前も死ぬなんて考えずに生きることを考えるんだ、生きて、生きて、生きぬいて人のために尽くすんだ。自分のためより人のために生きるんだ」とおっしゃいました。
 先生の温情あふれる言葉が、その後の私の人生を大きく変えたと思います。羽田通先生、寺西了雪先生、私は本当に良い師に恵まれたと思います。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠