連載:第2話 商売の原点を知る
  昭和9年の3月に、藤代の高等小学校卒業を卒業しました。その頃、私は何か物を作りだす仕事をしたいと思っていました。しかし、養母は私を勤め人にしたいという希望があり、亡き養父が働いていた高島屋を受験することになり、上京いたしました。
 上京してお世話になったのが、養父の親せきで、向島の業平橋にあった「丹波屋」という魚屋さんでした。高島屋の受験まで日数があり、遊んでお世話になるのが心苦しく、魚屋さんのお手伝いをすることになりました。ご主人は病身で、子供たちやおばあさんと療養に行って、店は奥さんとご主人の弟さんでやっていました。叔母さんは40才くらいで、ご主人の弟さん(かねちゃん)は25才。15才から他のお店の修業に出て、5年間修業を積み、実家に戻ってから5年。魚屋として腕に自信が持てる年で、平目などの盛り合わせ、お作りは芸術品と思えるほど見事でした。
 仕事の分担は、かねちゃんが早朝の買い出しと百軒くらいのご用聞き、奥さんは主にお店の番です。夕方、忙しくなると、2人ともお店に出ていました。私はご用聞きと店番の手伝いをすることになりました。紺のもも引き、腹がけ、半てんの可愛い可愛い魚屋さんです。ご用聞きの遠廻りは、かねちゃんがやり、近くを私が廻りました。午前中に注文をうけ、作って午後3時頃から配達。夕方からはお店に来るお客様の対応、夜は片づけで2つあった大きな白木造り冷蔵庫みがき、毎日の明け暮れは大変なものでした。しかし、私はこの生活の中で、お魚の調理方法を覚えました。人間はやろうと思えば何でもできるという気持ちを、この時期、自分の体に教えることができたと思います。
 昭和9年9月、高島屋に入社できなかったので、お世話になった魚屋からお暇をもらって茨城に帰りました。その頃、川崎市に住んでいた親せきから、「衛生材料の工場に住み込みで勤めてみないか」というお話しがありました。物を作る仕事をやってみたいと思っていた私は、工場で勤めることにしました。
 衛生材料工場の経営者は、白十字の社長をやっていた人の甥にあたり、奥さんはお店をもち、糸屋をやっておりました。私は社長の自宅の糸屋に住み込み、お隣りの衛生材料工場へ通うことになりました。工場の作業員は3人で、親会社の白十字から材料を仕入れ、脱脂綿、ガーゼ、包帯を作って京浜地区の薬局に卸しをやっておりました。
 工場では脱脂綿、ガーゼの折込み包装や、包帯の巻きこみ裁断包装などの作業を始めました。手先の器用だった私は、1カ月もすると一人前の仕事ができるようになり、全員が年長者であった工場で可愛がられ、本当に楽しい職場でした。
 営業関係はご主人の専門でした。京浜地区を自転車で走りまわり、注文とりから配達までやっていたため体調をくずされ、私は入社2カ月目から営業のお手伝いするようになりました。自転車に乗って、東京地区は今の文京区白山下から、横浜方面は本牧のお客様まで広範囲でした。雨の日や風の日は大変でしたが、配達は朝早くお店が開くころには届けられるように、配達が終わると御用聞きで飛びまわったものです。
 大変なのは売り上げを伸ばすことでした。お客様の出入りの多い薬局を探して、午後からお手伝いをするのです。店先に待機し、戸外に並べたものが必要な場合、薬局の人が外に出なくてもすむよう、お客さまの対応をしてあげるのです。お手伝いを3日ほどすると、帰りに脱脂綿10個、包帯10本とか、わずかですがご注文をいただけました。一度でも、ご注文がいただけると、商品が良くて価格が安かったので、継続してご注文がいただだけるのです。暑い日も寒い日も、そんなお手伝いをしながらお得意様を拡張していきました。
 お客様が何を求めているのか。そのお客様の気持ちになってお手伝いをする。そんな考え方で心をこめて行なえば、相手の心をゆさぶります。それは昔も今も同じで、お客様の反応は必ずあると思います。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠