連載:第3話 仕事を任される喜び
  川崎の衛生材料工場で営業を担当していた私に、新たな試練が訪れました。朝食のとき一緒に食事をしていたご主人が、「障子の桟が良く見えない」というのです。奥さんが近くの眼科に連れていくと、「内臓関係からきているので、大きな病院にみせたほうがいい」と言われ、信濃町の慶応病院に入院させました。病院でどんなことをしたか、私には知る由もなく、入院3日目でご主人は亡くなりました。葬儀が終わると親族会議があり、奥さんの糸屋は維持するが、衛生材料工場は閉鎖し、社員はみんな退職することになりました。奥さんから「糸屋の方に残って手伝ってくれないか」と言われたのですが、「糸屋の小僧で終わりたくない」という気持ちもあって、申し訳ないがとお暇をいただきました。
 1年ぶりで藤代に帰ると、市川の叔母(養母のいとこ)から、「文房具のお店を手伝ってくれないか」というお話しがありました。市川の叔父は、国分小学校の前に大きな文房具店をかまえ、叔父さん自身は2人の社員と教科書を販売し、叔母は文房具店を1人でやっていました。子供はなく、養女をもらって幼い子との3人暮らし。叔母は「お店と子育てにくたびれた。お店は任せるからやってもらえないか」と言うのです。小学校の生徒は千人もいるというし、しかも文具店は一軒だけ。これはやり甲斐のある仕事と思い、お手伝いをすることを決意しました。養母は「個人のお店の手伝いなんて」と反対しましたが、私のたっての願いに、しばらくの間ならということで同意してくれたのです。
 当時の国分は、国鉄の市川駅の町並みが外れてから、一田んぼ越えたところにあり、私の故郷、藤代よりも片田舎という感じでした。叔母のお店は結構大きく、文房具以外に菓子やパン、おせんべい、くずもち、ラムネなどまで売っていたのです。学校の休み時間や放課後になると、どっと子供が押しかけてきます。叔母の家についたその日から、雑踏のような子供との戦いが始まりました。
 文房具は品数が多く、値段を覚えるだけでも大変でした。学校の休み時間にどっと押しかけ、休み時間が終わると、さっと消えてしまう生徒、一人ひとりは1銭、2銭、5銭、10銭の積上げです。それでも、売上は毎日10円前後あるのですから、大変な数のお客様を相手にしていました。叔母さんはだんだんとお店を手伝わなくなり、お昼休みの一番お客様が多いときだけ私に手を貸し、仕入れから売上管理まで任せてくれるようになりました。
 毎日の売上、仕入台帳をみていますと、忙しいわりに利益率が低く、儲けは1割〜2割どまりなのです。その頃、仕入れの一切が配達でした。文房具、菓子類とも、ご用聞きが来て、配達してもらっていました。叔母が1人でやっていたのだから仕方なかったのでしょう。叔父さんにそのお話をしたら、叔父さんが教科書を始める以前は、文房具は蔵前、お菓子類は金糸町の問屋まで、仕入れに行っていたというのです。お願いして、文房具と菓子類の問屋さんを案内してもらいました。
 午後の暇な時間、叔母さんにお店番をお願いし、自転車で問屋廻りをはじめました。今まで配達してもらって仕入れると、8割以下のものはありませんでした。しかし、問屋街で仕入れると5割、中には5割以下のものもありました。それ以上に嬉しかったのは、子供の欲しがりそうな新製品がたくさんあったことです。当然、利益率は目に見えて向上、目新しい新製品は子供の好奇心を誘って、売上もどんどん増えていきました。利益が多くなると、おまけをしてあげられるので、子供たちは余計に喜んでくれます。
 任されて、責任を持たされてやるのは面白い。体を動かし、お客様の求めるものを積極的に与えていけば、喜んでいただきながら利益が増えることを知りました。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠