連載:第4話 日本一の技術者になろう
 市川で叔母の文房具屋をお手伝いしていたときは、毎日がとても楽しかったです。商品を仕入れるため、蔵前や錦糸町まで自転車をこいでくのは大変でしたが、商売が面白くて仕方ありませんでした。そんなある日、叔母さんが改めて話しがあるというのです。藤代にいる養母から手紙があり、私をどこか堅いところに、勤めさてほしいということでした。
 「叔父さんのお兄さんが、逓信省の電話局関係に勤めている。その人にお願いしてみるから、電話局の試験を受けてみないか」と、叔母さんは切り出しました。私は「ようやく、商売の面白さが分かってきたところだから、このまま文房具屋で働かせてもらいたい」とお願いしました。しかし、私の養母に最初から無理を言ってお願いしたのだから、試験を受けなければ藤代に帰ってもらうというので、昭和11年の6月、東京・赤坂の三会堂(アメリカ大使館前)で逓信省の試験を受けることになりました。
 紹介してくれた人が良かったのか、まもなく、東京逓信局の東京工事局というところから、合格通知が届きました。6月22日から、私に赤坂電話局へ出勤せよとのことです。私は前の晩から「お腹が痛い」と言って、食事もしないで寝ておりました。
 翌朝早く、叔母がまくらもとにやって来ました。「こうちゃん仮病を使っても駄目。今日出勤しないなら、すぐに藤代へ帰すから」と釘をさされ、私はしぶしぶ赤坂電話局へと出勤しました。腹が痛いと言った手前、晩と朝の食事は、まったく口にしていません。赤坂電話局の近くにあった弁当屋で、2食分まとめて食べたのも、今となっては懐かしい思い出です。
 こうして、いやいやながら入社した逓信省でしたが、新しい生活に順応することの早い私は、浅草の菊屋橋にあった富川さん(市川の叔父さんのお兄さん。その当時は浅草電話局の空気調整関係の責任者)のお宅に同居させていただき、赤坂電話局の自動電話交換機の技術者として、育っていきました。給料は日給月給制。1日が85銭、1カ月で25円50銭でしたが、養母からお小遣いをもらわないで、独立した生活ができる日を迎え、生活にも張りが生まれてきました。
 私が逓信省に入社して、赤坂電話局に技工見習として配属されたころ、担当する機械室は200坪くらいの広さがありました。一般のお客様を収容するA型自動交換機と、逓信局の構内自動交換機とで、それぞれ機械室の半分くらいを占めていました。その外に別室があって、逓信局の手動交換台を保守するのが、私の担当業務です。
 逓信局工事課から派遣された最高責任者は、赤坂局試験掛担当で、技師の吉川武雄と言いました。そこから試験、機械、電力、線路などの部署に分かれています。私の所属した機械関係を統率する人を取締役といい、星野七次さんがその任についていました。
 星野さんは人格円満、極めて温厚な方で、私たち見習にも、慈父のように接してくださいました。機械室内の自動交換機や、手動交換台のすべてに精通し、何を聞いても即座に教えて下さいます。私は、何と素晴らしい人なのだろう。おそらく、星野さんこそが日本一の技術者で、神様みたいな人だと思いました。私は、これからの人生で目標にするのは星野さん、この人から吸収できるものはすべてを吸収し、自動電話交換の技術者として、日本一になろうとひそかに決意しました。
 それからの私は、その目標に向かってひたすら努力しました。10代のころ、星野さんのような人に出会えたことが、私を自動電話交換技術者として、大きく育ててくれたのだと思います。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠