| 連載: 第5話 私を支え続けた言葉 |
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昭和11年、逓信省工事局に入り、赤坂電話局で勤務しましたが、身分は技工見習です。本採用になるためには、上司の推薦により、銀座電話局にあった「技術養成所」を終了しなければなりません。毎日の仕事を人一倍努力した甲斐あって、同じ時期に採用された中で最年少だった私が、わずか1年で銀座の養成所に入ることできました。
養成所に入所した同期生は50人。4カ月に及ぶ、厳しい訓練が始まりました。勉強は朝8時から夕方の5時まで。昼休みの1時間除き、びっしり8時間もありましたが、給料をいただきながら勉強できるので、とても楽しい毎日でした。電気の基本から、磁石式交換機、共電式交換機、A型自動交換機と、吸取紙が水を吸収するように、知識をどんどん身に付けていきました。
技術養成所の所長が、藤井技官でした。その講和の中で、とても熱い口調で語ってくれ、私の心に残ったものがあります。
「現在、我が国の電話には、たくさんの問題がある。申し込みを集めて、抽選で当たった人にだけ取付けている。こんなことでは駄目だ。申し込んだらすぐに取付けてあげられるようにすること。これが第一の目標。第二の目標は、九州の片田舎に私の両親が住んでいるが、何か用事があって市外電話を申し込んでもつながらない。これでは電話の役目は果せない。ダイヤルしたらすぐつながり、毎晩両親にあいさつしてから寝られる電話、これが我々が目標とする理想の電話だ。君達の時代に必ずこれらをやらなければいけない」
これは昭和12年の話です。ご存じのように現在のNTTは、当時目標とし、理想としたものをはるかに凌駕しています。
こうして社会人の一歩を踏み出しました。当時は六本木の近くにある霞町に下宿していました。「技術養成所」を終了し、本採用になったときの月給が34円50銭。食堂でお腹一杯食べて、1カ月の食事代が約11円、ポプリンのワイシャツを誂えて1円50銭でしたから、給料で十分な生活ができました。
その頃、勤務先の赤坂電話局には、優秀な先輩がたくさんいらっしゃいました。ほとんどの人が、夜間の学校に通って、己を高める努力を重ねていたのです。私の下宿のそばに、新潟出身の山内次郎という先輩が住んでいました。山内先輩は独学で、専門学校検定試験に合格するほど大変な努力家でした。
山内先輩は私を可愛がってくれ、よく誘われて彼の下宿に行きました。みかんや乾燥芋などをご馳走になりながら、夜更けまで指導を受けたものです。また、数学、物理、電気など吸取紙のように知識を求めていた私にとって、山内先輩から借りた本は、宝物のような価値がありました。
お借りした本の表紙を開けると、その裏に必ず「己に打ち克たざるもの、あに、人に打ち克たざらんや」と記されていました。少年期の私にとって、これは強烈に印象に残った言葉です。独学を続けていた山内先輩も、時には眠気に誘われ、時には遊びたいときもあったことでしょう。そのとき、表紙の裏の文字をにらみながら、すべての誘惑に打ち克って勉学に励んだのだと思いました。
山内先輩は、やがて不治の病といわれた結核におかされました。江戸川病院に入院し、血を吐きながら、私の手を握ったまま死んでいきました。私の心に「己に打ち克たざるもの、あに、人に打ち克たざらんや」を強く刻みつけたままで……。
私は今もこの先輩が残してくれた言葉を座右の銘としています。生死をさまよった軍隊生活の中でも、長男の回復の見込みがない病気との闘いの中でも、妻の4回にわたる回復手術のときも、長い年月をかけた臨床実験のときも、いつも「己に打ち克てずに、人に克てるか」という言葉が、私の人生を大きく支えてきたといっても過言ではありません。
これからの人生も、平坦ではないでしょう。たとえどんな苦難の道であろうとも、この言葉を支えに、歩み続けたいと思います。 |
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 | | 石渡弘三 | プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。 座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠 |
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