連載:第6話 戦争と養母の笑顔
  技術養成所を終了し本採用になってから、勤務地の赤坂電話局で星野取締役のもと、熱心にA型自動交換機の勉強を続けました。受講できる講習会は積極的に参加。機械部門では星野取締役に次ぎ何でもできると評判になり、逓信省の交換台が故障したとき、交換台の責任者からご指名をいただけるほど、技術者としての腕を認めてもらえるようになりました。
 昭和15年、満20才になって、本籍地の茨城県で徴兵検査を受けました。甲種合格になった私は、翌年3月1日から、水戸市外の長岡村にできた、航空通信教育隊への入隊が決まりました。
 養母の手許から離れて、5年の歳月が流れていました。一日も早く養母から離れて、独立したいと思いつめていた頃より、多少は成長したのでしょう。支那事変も始まっていることだし、一度軍隊にはいったら、どこに出征するかわからない。恐らく生命の保証はできないだろう。このまま死んだら、育ててくれた養母に何もしてやれずに終わってしまう。せめて入隊前の1年だけでも、茨城から赤坂まで通って、養母と一緒に暮らそう。そして親孝行の真似事でもしてから軍隊に入りたい。そう思った私は下宿をひきはらい、茨城県藤代の生家に帰って、東京の電話局まで勤することにしました。
 当時の常磐線は電化される前で、機関車が煙をはいて走っていた時代です。藤代から上野まで汽車、上野から新橋までが国電、新橋から赤坂までは徒歩の毎日でした。通勤時間は2時間半、帰りも同じでしたが、夕食を食べずに何かつくって待っててくれている。養母との食事は楽しいものでした。休日には実家の農業を養母と一緒に手伝い、家族団らんで一緒に食べたおむすびの味は、いまでも忘れられません。何より嬉しかったのは、養母の笑顔が毎日見られることでした。気がつくと、それが私の生き甲斐になっていました。
 いよいよ現役兵として入隊する前日になりました。鎮守の森、熊野神社で礼拝し、見送りに来た町内の人たちにあいさつしてから、水戸へと向かいました。長兄が入隊まで見送ってくれることになり、2人で指定された長岡村の農家に一泊しました。20年間生きてきて、兄とは初めての、そして最後の旅行でした。私がビルマまで転進したころ、兄は海軍に召集され、フィリッピンのミンダナオ島で戦死したのです。長岡の農家で、兄とくみ交わした盃が、別れの盃になりました。
 私の入隊した航空通信教育隊は、満州新京にあった航空通信第一連帯が原隊でした。満州では教育をやるには寒すぎるのと、航空部隊の増大にあわせて、航空通信兵を大量に育成する必要もあり、水戸市外の長岡村に新設されました。兵舎は新しいものの、部隊長、中隊長、教育担当の教官や古参兵まで、満州から選ばれ水戸に移った人たちばかり。いわゆる関東軍の気合は相当のものでした。
 連隊長は宮村信幸大佐、第5中隊長が濱金右エ門大尉、内務班長は三木忠敬軍曹で、班長と古参兵が4名、初年兵は20名という編成でした。無事に過ぎたのは最初の二日だけ。三日目の午後、演習の集合に遅れたものが1人いて、その夜、一日の終了を確認する点呼で、班長から全員がビンタをうけました。その夜からは、ビンタのない日が物足りないくらい、日を追うごとに、頬の内側がかかとの皮より厚くなっていくのです。そうなるとビンタなんか、大したことではなくなるのですから、鍛えるということは、すごいものだなと思いました。教練と送受信に明け暮れ、号調音の練習、食事当番、銃の手入れから洗濯まで、走り廻る忙しさの中、私たちは日増しにたくましくなっていきました。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠