連載:第7話 養母の愛に泣く
  入隊した水戸の航空通信教育隊で、当初は6カ月間の訓練を受ける予定でした。しかし、戦火は風雲急をつげ、1カ月ほど予定を繰り上げて、満州に渡ることが決まりました。
 訓練の総仕上げとして、7月半ば、柏市で演習を行うことになりました。演習が終わって満州に移れば、養母とは二度と逢うことができないだろう。柏に行く途中、実家のある藤代駅を通る。藤代駅には父が勤めている。父を通して、何とか満州にいくことを養母に伝え、面会に来てもらい。最後の別れがしたいと思いました。
 早速、養母に手紙を書きました。「柏市の演習に行く途中です。演習が終わると今月末には満州に出発します。満州に行けば生命の保証はないので、もう一度逢ってお別れがしたい」と書き、白いハンカチに石と一緒に包みました。
 演習に向かう日、見慣れた藤代駅を通過しました。構内を通るとき、便所の窓から用意した手紙を落したのです。それを見つけて、父の歩みよる姿が目に入りました。自分一人でこんなことをして申し訳ないと思いましたが、そのときは養母にもう一度逢って、お礼を言いたいという気持の方が強かったのです。
 柏の演習から帰った最初の日曜日、面会の案内がありました。面会所には養母が待っていました。養母の話によると、藤代駅と隣の佐貫駅の間にある、小貝川の堤防が切れて水が入り、常磐線が一部不通になっているということでした。そのため、養母は朝早くわざわざ牛久駅まで歩いて、水戸にやって来てくれたのです。面会所は誰が聞いているか分かりませんから、満州にいくと話せませんが、お互いにこれが最後かもしれないという思いの中の面会でした。
 時間が来て、別れのときがきました。その時、養母が「どんなことがあってもお金は役に立つと思うから、千人針の中にぬいつけてもっていきなさい」と、隠すようにして紙包みを渡してくれました。面会が終わり、内務班に帰ってそっと紙包みをあけてみると、10円札が3枚入っていました。その頃は大金です。とりあえず煙草ケースの中にかくしました。そのまま自分の手箱の中にケースを入れ、多忙な行事に飛び廻っていました。
 夜の点呼前、少しひまな時間を利用して、母からもらったお金を千人針にぬいつけておこうと思い、手箱の中から煙草ケースを出してあけてみたら、30円がものの見事になくなっていたのです。
 何ということだろう。これから一緒に満州に行き、生死を共にしようという戦友の中に、養母の愛の結晶を盗み取るような人がいるなんて……。純粋な戦友愛を期待していた私にとって大きなショックでした。それまで、ひたむきに暮して来た毎日の軍隊生活が、こんな形で裏切られるとは……。軍隊生活なんかどうなってもいい。俺ももっと悪人になって、太く長く生きてやろうと思いました。
 次の日の午後、また私に面会人が来たという知らせを受けました。養母は昨日来たのだし、入営前夜に宿泊した長岡村の農家の方がよく面会に来てくれていたので、その人たちが来てくれたのかなと思いました。ところが、面会所に行くと、昨日と同じように養母が待っていました。
 どうしてまた来てくれたのか問いかけると、「昨夜、家に帰って床についたら、お前が夢の中に現れ、枕もとに座ったまま養母の顔をじっと見ていた」と言うのです。夢の中で養母が「どうしたの」と膝をゆすぶって聞くと、「戦地に行っても何も困ることはないけど、病気になったら困る」と言い、あと何を聞いても返事をしなかったそうです。
 義母は「何か変わったことはなかったの」と聞きました。私は養母からもらったお金を、昨夜のうちに盗まれてしまった話をしました。黙って聞いていた養母は、「そんなことでよかった」と言いました。その夢を見てから眠れなくなったので、満州で寒い思いをしないよう編みかけていたセーターを一晩かかって仕上げ、私に手渡してくれました。そして、「お前が盗まれたことを表にだせば、これから戦地にいく戦友に傷がつく。盗まれたことは忘れてこれをもっていきなさい」と、財布からまた30円のお札を渡されたのです。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠