連載:第8話 冬の早い満州に上陸
  窓を完全に閉めきって、カーテンをおろし、全く外が見えない汽車に乗せられ、水戸駅を出発しました。水害にあった常磐線の復旧工事が進み、藤代と佐貫の間が徐行運転できるようになった直後、8月上旬のことでした。汽車がどこを通っているのか、そして、どこまで行くのか、誰にも分かりません。徐行して小貝川の鉄橋を渡る音から、いま、故郷の藤代駅周辺を走っているのだと想像し、我が家の方へ心の中で手を合わせ、故郷に別れを告げました。
 汽車は夜通し走り続け、次の日の夕方、広島に着きました。広島で一泊したのち、翌日は宇品港で船に乗せられ、ただちに出港です。波の荒い玄界灘をこえて、8月17日、大連港へ上陸しました。いよいよ、私たちは満州の地に第一歩をしるしたのです。そこから更に、満州鉄道に乗り、新京まで参りました。さすがに満州は広い。それが第一印象でした。リンゴ畑があれば果てしなく続き、赤い夕陽は地平線の彼方に沈みます。その雄大な展望は、軍歌戦支の「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下」を、実感させるものでした。
 新京の原隊では、私たち15年兵の到着をまって部隊を編成。私は航空通信第1連隊、第5中隊に編入され、ただちに北満のソ満国境に近い、寧安へ転進いたしました。いよいよここから、本格的な初年兵教育の始まりです。寧安には航空通信第2連隊が常駐しており、私たちが所属した航空通信第1連隊の第5中隊は、その兵舎の一部を借りて駐在することになりました。
 まだ暑かった水戸を出発してから、9月になっていました。北満州の冬は早い。8月でも下旬になると寒くなります。毎朝、かけ声を大きくしてやっていた乾布まさつも、真剣にやらなければ肌をつく寒気がおそいます。全員に防寒服が支給され、演習場だった安立山での登山訓練にも、一段と熱が入りました。夜間のイトウ、ロジョホコウ、ハーモニカの号調音による送信や受信も、夜毎にその早さを増し、私たち初年兵は、日増しにたくましくなっていきます。
 初年兵の教育担当の教官に、時下少尉がいました。志願兵上りの九州出身者で、非常に訓話の上手な方でした。兵の心をとらえていらっしゃり、少尉の崇拝する武田信玄の話を、よく聞かせていただきました。
 「お前達もやがては第一線に立つ日がくるだろう。第一線で何より必要なものは、日頃の心構えだ。どんなことがおきても、平然としていなければならない。武田信玄は諸事に臨んで、"動かざること山の如く、静かなること林の如く、ときこと(早きこと)風の如し"と言っている。お前達も第一線で、いつどんなときも、この心構えだけは忘れないように――」
 やがて私も、ビルマで分隊長として第一線の兵を指揮する立場になったとき、時下少尉に教えられた戦時の心構えが、どれだけ役に立ったことか――。時下少尉も私の人生にとって、忘れられない先生の一人です。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠