連載:第9話 軍曹の盾になって死のう
  満州に渡り、9月1日には一等兵へ昇進、一つ星から二つ星になりました。同じ日にラシャの防寒服を支給され、一段と兵士らしくなっていきます。往復ビンタを毎日くらっても平気。何も感じません。ほほの内側は、かかとの皮の様に厚くなり、いくら殴られてもビクともしないのです。人間を鍛えるということは全くすごいもの。これでないと第一線で戦う兵士になれないのかもしれません。
 ペーチカに火の入った九月下旬、突除として「南下せよ」との命令が下りました。関東軍の精鋭の大半は、南下をはじめると古参兵が話してくれました。完全軍装し、私物から典令に至るまですべて背のうに詰め、防寒服の外とうまで加えると、ゆうに50kgはあったでしょう。とりあえず、新京の本体まで復帰することが決まりました。
 赤い夕陽の北満州寧安から南下をはじめ、新京にたどり着いたのが9月27日でした。新京駅から連隊までは5kmほどありましたが、いきなりこれを駆け足で走らされたのです。50kgの装具に38式歩兵銃の完全軍装のまま……。目もくらみそうな中、何とか無事兵舎へ到着しました。あとで分かったことですが、実はこのかけ足が南下する兵と、残留する兵の選別だったのです。ただちに出陣式を行い、9月29日新京を発ち、大連をめざしました。
 昭和16年10月1日、大連港を出航。行き先は全く分らない。多分、南の方だろうと想像するだけで、誰も分かりませんでした。着ているのは支給されたラシャの防寒服のままです。10月7日、台湾高雄港に入港。当時の台湾の防衛体制は、内地とまったく同じに扱われていたので、上陸前の船中で防寒服から下着まで蒸気で消毒されました。消毒を終え、ぽっぽと湯気があがる防寒服を着て、上官の許可がなければボタン一つ外せない軍律の中、高雄から屏東市まで徒歩行軍です。
 屏東では小学校を宿舎にしました。その頃の陸軍は横暴で、学校を休校させて軍の宿舎にしていました。屏東での訓練はすべて対暑訓練。明けても暮れても演習です。とくに防毒マスクをつけたままの演習が多く、やがて展開される南方作戦に備え、暑さに耐え得る兵を育てようとしていました。
 そんなある日、突然防毒マスクの呼吸弁の検査がありました。その時、何と私の呼吸弁がついていなかったのです。訓練担当の将校(当時中尉)は、私を将校室に連れ込み、殴る蹴るの暴行が始まりました。しかし、呼吸弁は全く知らないうちに取り外されたもので、私自身に思い当たることがありません。「私は知りません」で押し通すと。顔が変形するほど殴らてれ、分隊へ戻りました。
 その時の分隊長が、今も島根県松江市で元気に農業をやっておられる野津利男軍曹でした。野津軍曹は私をしっかり胸に抱き、「百万人がお前を疑っても、私はお前のことを信じるよ」と言ってくれたのです。私は第一線でこの人が危険にさらされたとき、盾になって死のうと思いました。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠