| 連載:第10話 軍隊で学んだ人間の姿 |
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昭和16年10月、台湾に上陸してからの耐暑訓練は、1カ月以上に及びました。来る日も来る日も、暑さに体を慣らすための演習が続き、先月まで満州にいて防寒服が必要だった私たちの体を、極限まで追い詰めていきます。実際にこのあと行った南方の方が、楽だったと感じられるほど、凄まじいものでした。
訓練がようやく終わりに差し掛かり、サイゴンへ向かって出航する直前、私が慕っていた野津利夫軍曹が赤痢にかかってしまい、入院することになりました。分隊は一時的に解散されられ、兵隊はそれぞれ、ほかの部隊に預けられていきました。私の新しい上官は奥村という軍曹でしたが、こいつがとんでもないワルだったのです。
とにかくひどい男で、初年兵にも5円くらいのお小遣いが支給されるのですが、奥村軍曹はそれを渡さず、女郎屋にもっていって、自分で全部使ってしまうのです。私も骨っぽい人間ですから、こんなやつについていけないと思い、次第に逆らうようになりました。当番を命じられても無視するなど、意識的に反発を繰り返していました。
11月15日に台湾を離れ、新たに所属した分隊は、20日にサイゴンへ上陸しました。当時のサイゴンは都会で活気もあり、満州の大平原とはまったく違います。確かに暑いところでしたが、台湾よりも乾いた風が印象的でした。ここから、本格的に航空通信網を形成する任務が始まりました。飛行機が飛ぶ時は、事前に連絡をとって通信で指示をしなければなりません。航空通信網があるから、飛行機を飛ばせるのです。私が受け持っていたのは、飛行場と飛行場の通信を結びつけるもので、何時ごろに到着するから給油の準備をしろ、爆弾を用意しろといった命令系統でした。各飛行場を渡り歩き、ときには航空部隊について、転々としながらタイ国境をめざしました。
任務を遂行しながらも、分隊長への反発は続いていました。のちに奥村軍曹も預かっている私を煙たく感じ、結局、私は本隊への帰還を命じられることになります。ちょうどその頃、上等兵の選抜が行われていました。本来なら、上官に逆らって帰還させられた私を選ぶはずがありません。しかし、ちょうどその頃、私が慕っていた野津軍曹が退院し、本隊に復帰していたのです。野津軍曹は、「あの男はそんなやつじゃない。逆らうのは、よほど分隊長が悪やつなんだ」と言ってくれ、私は上等兵になることができました。入隊から1年で上等兵になったのは、中隊の中で私ひとりだけ。とても名誉なことでした。
その後も、兵長、伍長、軍曹と階級は上がっていきましたが、どんな仕事もこなす私が、常に一番最初でした。兵長になってからは、異例の若さで部下もできました。軍隊とはいっても、一般社会と同じです。良い人もいれば、とんでもなく悪いやつもいる。でも、最終的には心の問題なのです。思われていば、思います。尽くしてやれば、尽くしてくれます。それが人間の姿なのです。心の大切さは、電電公社に復帰してから、そして治療器の普及を進めるうえでも、大いに生かされたと思います。 |
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 | | 石渡弘三 | プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。 座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠 |
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