連載:第12話 若き兵長と12人の部下
  太平洋戦争の開戦からしばらくの間、日本軍は破竹の快進撃を続けていました。ビルマを越えてマンダレーまで前進したころ、私たちの部隊は「第一航空通信連隊」と改称。勝ち戦を続けていた当時は、戦力の増強とともに航空通信の重要性が増し、現地で兵隊を教育をしながら、新しい部隊がつくられていきました。
 そんなとき、私はデング熱にかかってしまいました。南方の風土病の一つですが、いま振り返ると、これが私の運命を大きく左右したように思います。デング熱になると、42度ぐらいの高熱が、毎日続きます。南方の風土病としてはマラリアも有名ですが、デング熱の方が、一気に高熱が出て苦しいのです。結局、私は1カ月ほど、ラングーンの病院に入院していました。
 ようやく高熱がおさまり部隊に戻ると、「第一航空通信連隊」には籍がないと言われました。新しくできた「第三航空通信連隊」に転属されたということでした。部隊にしてみれば、病気になるような兵隊は、外に出してしまえということなのです。しかも、新しくできた部隊に対しては上官も冷淡ですから、すぐにビルマ北方の最前線へと送り込まれました。
 もし、そのまま「第一航空通信連隊」に籍があれば、比較的安全なビルマ南方にいることができました。しかし、この転属によって、終戦まで常にビルマの危険な地域を転々とすることになったのです。
 もう一つ、「第三航空通信連隊」に転属されたことにより、階級にも違いがあったと思います。新しい部隊ということもあり、人材は十分に揃っていませんでした。私のように何でもこなしていく人間は、とても重宝されました。その結果、私は最終的に軍曹まで務めることになります。私のような立場で入隊したものは、せいぜい兵長くらいまで。それが伍長、軍曹まで昇格したのですから異例のことでした。しかも、一選抜といって、どの階級も最短の期間で昇進していったのです。
 そうした経緯もあり、昭和18年の3月、まず私は兵長になりました。加えて12人の部下を持つ分隊の長として、指揮をとることになりました。そして終戦にいたるまで、この12と行動を共にすることになります。私の生涯の中で、忘れることができない12人の仲間たちです。この12人を生かすも殺すも私にかかっています。中途半端な責任ではありません。
 兵長で分隊長を務めることも異例でした。しかも二十歳そこそこの若者で、部下には私より年長でベテランの兵隊もいました。しかし、それでも私を慕い、ついてきてくれました。本当に12人の部下とは心が通い合いました。想えば、想われる。尽くせば、尽くされるのです。戦地であっても、人間同士であることには変わりありません。
 私には一つの誇りがあります。この12人をひとりも殺しませんでした。とんでもない負け戦だと悟ったときから、絶対に命を守ってやろうと決意しました。たとえ、私の身が犠牲になったとしても……。ひとりも殺さなかったことで、私には何一つ悔いがありません。それが私のヒューマニズムの原点になっています。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠