| 連載:第13話 心の通い合った12人 |
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太分隊を任され12人の部下を持った私は、もっとも若かったこともあり、一番危険なビルマ北部の最前線へと送り込まれました。われわれは飛行場を結ぶ通信を受け持っていましたが、自動車に無線機を乗せて移動します。有線の通信網もありましたが、爆撃を受けてどこかが切れてしまえば使えなくなるので、どんな状況でも使える無線は重宝され、他の部隊からも頼られることが多くなりました。厳しい戦況、重みを増す任務の中で、12人の部下たちとのチームワークは、生き延びるために何よりも欠かせないものでした。
12人の部下にはいろんな人間がいました。まだ10代の初年兵もいました。私は分隊長ですから、彼らの教育も仕事の一つです。私自身が受けた教育は壮絶なものでした。当時の軍隊教育は、とにかく殴って体で覚えさせるというやり方です。日本、満州、台湾での訓練を通して、殴られた頬の裏側は、足のかかとのように硬くなっていました。
しかし、逆の立場になったとき、私は決して初年兵を殴りませんでした。そんなことをやっても、意味がないと分かっていたからです。初年兵を呼び出し、「ふらふらするな。歯を食いしばれ」と叫んでから、スリッパで私の手のひらを思いっきりたたきます。そうするともの凄い音がして、傍で聞いている古参兵は、「新しい分隊長は気合いが入っている」と喜ぶのです。殴られると思っていた初年兵が、涙を流して喜んでいたのを忘れることができません。
部下は殴りませんでしたが、上官に逆らうことはよくありました。あるとき、女好きの中隊長が、前線で危険にさらされている私たちを迎えにこないことがありました。命からがら中隊本部に戻り、「遊びに使う車はあっても、兵隊を助ける車はないのか」と叫び、中隊長に刀を振り回して暴れました。止めにはいったみんなに、羽交い絞めにされましたが、それほど血の気は多く、筋の通らぬことは許しませんでした。上に逆らい、下はかわいがる。そんな姿をみているから、部下が慕ってくれるのです。
年下だけではありません。私よりはるかに年上の部下だっていました。一度は下士官になっていたのに、博打をやって降格させられた、いわば札付きです。当然、私のように若い上官に使われるのは面白くありません。前線に行くと勝手に髪を伸ばして、「軍属さん」と呼ばれているのです。それでも、何ひとつ注意しませんでした。むしろ、中隊から上官が来るときは知らせて、叱責されないよう気遣ったほどです。好きなことをやらして、責任は私が負えばいいと思っていました。
こんなふうに接していると、当然、年上の部下も、若い分隊長はどこか違うと気付きます。こうやって、みんなと心を通わせていったのです。しかし、このベテランの兵隊は、いざ爆撃が始まったとなると、もっとも的確な判断を下し部隊を守ってくれました。経験が豊富なだけに、極限の状況で素晴らしい力を発揮します。
要するに個性なのです。いろんな人間がいる。それを認めて個性を生かし合うことが、組織にとって最も大切なのです。そして、お互いに心が通い合っているから、あの状況を切り抜け、みんな生き延びることができたのです。心が通っているのは前線に行けば分かります。戦いの最前線では、弾が飛んでくるのは前方だけではありません。極限では後ろにいる味方から飛んでくることだってあるのです。戦争とは、それほど凄まじいものなのです。 |
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 | | 石渡弘三 | プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。 座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠 |
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