| 連載:第14話 この戦争は全部嘘っぱちだ |
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昭和18年8月、分隊を任されていた私は、伍長へ昇格しました。兵長になってから、わずか5カ月後、一選抜といって、これも最短期間での昇格です。振り返ってみると、日本軍が優勢で戦況が良かったのは、この伍長になったころまででした。
ビルマにも、良いところがたくさんありました。私がいたタボイという飛行場の近くは、とくに果物が豊富です。例えば、ドリアン。あの独特の臭いは苦手な人も多いでしょう。しかし、それは食べる前のことで、あんなに美味しいものはありません。村に入っていくと、ドリアンがたわわに実っていて、あの臭いがあたり一面にたち込めているのです。最初は私も嫌でしたが、食べ始めるとやみつきになり、ついにはあの臭いがすると食欲がわいてくるほどでした。
ザボンもたくさんありました。木に大きな実が成り、ネバネバした繊維の中に、ドロップのような種が入っています。すごく硬いのですが、これを茹でると本当に美味しく食べれるのです。果物が豊富にあったことで、私たちの命が救われたのだと思います。戦況が悪化してくると、必要な物資の補給すらままなりません。食料さえ届かないのですから、自分らで見つけて食べるしか生き延びる方法はなかったのです。
そもそも、日本軍は物資の補給に対する意識が希薄でした。全部、現地で調達すればいいと考えていたのです。日本にモノがなかったといえばそれまでですが、常に前線で命の危険にさらされながら、生き延びるための食料すら、自分たちで確保しなければならない。そんな過酷な状況へと、追い込まれていきました。
まだ日本が快進撃を続け、勝っていたときは良かったのです。ビルマの人たちも、日本人に対して協力的でした。しかし、ひとたび戦況が悪化してしまえば、よその国の兵隊さんです。軍票はもちろんのこと、お金が通用しなくなります。われわれ航空通信は、兵隊の中でも質が良く、いわばジェントルマンでした。しかし、歩兵部隊などの中には、暴行したり、収奪したりと、悪事をはたらく兵隊がいたのも事実です。現地では、日本軍に対して恨みを持っていた人たちもたくさんいました。
昭和19年になると、さらに戦況は厳しさを増してきます。それまで見ていたのは、外国人の死体でした。しかしこのころから、おびただしい数の日本兵が死ぬようになってきます。その死臭というのは、凄まじいものです。まして、南方の熱いところですから、想像を絶するものでした。中隊本部から将校が、変更された暗号集を前線へ届けにくるのですが、死臭に耐えられず、夜なのに泊まらず帰っていってしまうほどです。
われわれは常に、通信用の無線機を持っていました。周波数域が広いため、日本の時事通信だけでなく、世界中のラジオ放送を受信でき、おのずといろんな情報が入ってきます。目の前にある悲惨極まる現実。にもかかわらず日本の放送では、「勝った、勝った」と伝えていたのです。
何が勝っただ。目の前で起こっていることは何なんだ。人を騙して、全部嘘っぱちじゃないか――。死臭がたち込め、壮絶さをましていく戦場。それとは裏腹に、ラジオは嘘を垂れ流し続けていました。そのうち私は、負け戦だと確信するようになりました。部下には、将来のある若者たちもいます。ここで死んだら、犬死にだと思いました。だから私は、絶対に一人も殺すまいと誓ったのです。
戦争は生命力と精神力の限界がためされます。絶対に勝つんだとか、心を支える強いものがなければ、生き残ることはできません。嘘っぱちの負け戦で、「一人も殺してなるものか」という怒り。それが私の心を支えたのです。このように壮絶な状況に追い込まれながら、インパール作戦が決行されました。飛行機の全くこない、最前線の飛行場。毎日、爆撃にあいながら通信を確保し、食料もなく骨と皮だけになりながら、すべての命を守り抜いたのです。 |
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 | | 石渡弘三 | プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。 座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠 |
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