連載:第15話 玉砕分隊と呼ばれて
  昭和19年2月、インパール作戦への出撃命令が下ります。当時、英軍の占領下にあったインドへの侵攻は、のちに無謀極まりない作戦と非難されました。事実、私が目にしたのは、あまりに壮絶で地獄のような光景でした。食料や武器の補給すら考えず、インパールをめざしていったのですから……。
 命令を受けたとき、私はビルマ南方のタボイにいました。すぐにラングーンの中隊に引き戻され出陣式。その時、われわれは「玉砕分隊」と呼ばれました。つまり、あんなところへ行けば、無事に帰ってくると誰も思っていなかったのです。私が最も若い分隊長でしたから、危険な場所への出撃を命じられたのでしょう。どうせ死ぬのだからと、前の日は酒やご馳走がふるまわれました。翌日、中隊全員の見送りを受け、無線機を積んだ、いすゞの6輪駆動車に乗り込みました。めざすはインパール目前のインダウ飛行場です。
 ビルマ中部のマンダレーまでは道路も整備され、日本軍の勢力下にあったため順調に進みました。問題はそこから先です。インドとビルマの国境付近は山岳地帯。あるときはジャングル、あるときは水田、さらには線路の上など、道なき道を北へ北へと進みます。敵に見つからぬよう昼間はジャングルに隠れ、夜にスモールライトでゆっくりと前進。こうして何とかインダウ飛行場へ到着しました。
 当時、ここが日本軍にとって最前線の飛行場でした。とはいえ、竹やぶに滑走路1本の粗末なもの。飛行場に通信所を開設せよという命令でしたが、こんなとこで爆撃を受けたらおしまいです。私の判断で少し離れた崖に横穴を掘り、そこへ通信所をつくりました。命令違反といえばそれまでですが、何百キロ離れたとこから、最前線の様子が分かる訳ないのです。すべて私が責任をとればいい、部下の命を預かっているんだという強い使命感がありました。
 飛行場に着いてしばらくの間、日本軍がインパールへ向かっているときはまだ良かったのです。しかし、すぐに戦況は悪化してきます。まず敵の偵察機が、ゆっくりと頭上を飛び回るようになりました。つまり、制空圏を敵に奪われてしまったのです。ゆっくり観察して、じゅうたん爆撃が始まります。一つの町が、一度の攻撃で吹っ飛んでしまうくらい、嵐のように爆弾がふってきました。
 インパールを目前にしていた歩兵師団も、雨季に入って動きが悪くなり、釘付けになっていました。この作戦はまったく補給のことを考えていませんから、戦利品がなくなると食うものもありません。仕方なく撤退をはじめますが、餓死者が累々と横たわり、私たちの目の前には地獄のような光景が広がりだしました。彼らの飯ごうの中には、いぬげのはえたご飯しかなく、下痢するのを分かって洗いながら食べているのです。あれほど、むごいものを私は見たことがありません。
 それでも無線機に入ってくる日本のラジオは、勝った勝ったと伝えていました。士気に関わるので、部下には伝えませんでしたが、嘘っぱちの負け戦という確信は強くなっていました。日に日に激しくなる爆撃にさらされながら、激しい雨でついにインダウ飛行場は水没してしまいます。まったく機能しなくなり、私たちにも撤退命令がでました。前進するときはいいのです。悲惨なのは、負け戦で逃げているときなのです。これからが、玉砕分隊と言われた私たちの正念場でした。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠