| 連載:第16話 南への命からがらの撤退 |
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昭和19年の終わり頃、中隊本部からの撤退命令を受けて、われわれ分隊は、水没したビルマ北部のインダウ飛行場を後にしました。玉砕分隊と呼ばれ、インパール作戦の発動から半年以上にわたって、最前線で爆撃にさらされてきました。しかし、これからが本当の生死をかけた撤退です。敵に制空権を奪われたビルマ北部を抜け、まだ日本の勢力下にあったマンダレーをめざしました。
とはいえ、昼間はまったく動くことができません。下の方でこそこそ動いているものが見つかれば、上空にいる敵の飛行機に爆撃されます。無線機を載せた、いすゞの6輪トラックをジャングルに隠し、われわれはじっと息をひそめていました。そして暗闇が覆うころ、ひっそりと南に向かって進みはじめます。
毎日が命がけです。食料の補給もありません。負けている軍隊のお金は、もちろん通用しません。マンゴウやドリアンを採ってきたり、あとはジャングルにいる動物を食べて飢えをしのぎました。部下の一人に、銃の達人がいて、夕方になると、キジや野鶏が寝ぐらに戻ってきます。その一瞬だけが仕留めるチャンスです。変なところに当たると逃げてしまうのですが、彼は一発で頭に命中させます。そうやって獲物を獲り、みんなで分けて食料を確保していました。
暗闇の中、撤退するときは、私より年上だった2人の召集兵が存分に力を発揮しました。前線では勝手に髪を伸ばしたり、好き放題にふるまっていた彼らですが、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた経験があります。今日はここまで絶対に下がるんだと決めたら、彼らは必ず実行してくれました。
道なき道を南へと向かいました。トラックに乗り、線路の上を走ることもありましたが、枕木の間に車輪が落ちてしまえば、それっきり動かなくなります。ですから、両脇から枕木の間に一本ずつ木をまたがせて、その上を走っていくのです。彼らの判断力と生きるための知恵がなければ、恐らく無事に戻ることはできなかったでしょう。
このように極限の状況におかれたとき、部下との信頼関係、そして一人ひとりの個性が大きな力となります。射撃が得意なもの、極限で生きる術を知ってるもの……。どんな人間にも、その能力を生かせる場面が必ずあるということを、紙一重の判断が生死を分ける戦場で学んだように思います。
はじめのころ、昼間しか上空にいなかった飛行機が、夜中にトラックで走っているときも爆撃してくるようになりました。撤退している歩兵は、栄養失調で立っているのが精一杯。追い打ちをかけるように、悪性のマラリアも蔓延していました。ついに餓死、病死してしまった無数の兵隊が、いたるところに横たわっています。あたりには死臭がむんむんと立ち込め、この地獄のような光景を正視できる人はいないでしょう。
そんな中、マンダレーをめざしていた私たちは、服もすべて売り払ってしまい、下はふんどし、着ているものは雨合羽だけというみすぼらしい格好でした。それでも何とか、部下全員の命を守り通すことができました。ラングーンの中隊本部に戻ると、驚きの声に包まれました。あそこまで行けば、生きていられないはずの玉砕分隊が、一人も欠けることなく帰ってきたのですから。 |
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 | | 石渡弘三 | プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。 座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠 |
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