| 連載:第17話 プノンペンで終戦を迎える |
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ラングーンの中隊本部へ戻った私たちの分隊は、年が明け昭和20年の2月に、タイのバンコクへと向かうことになります。敵軍はビルマ北部から一気に南下を進めており、ラングーンでも頻繁に爆撃を受けるようになっていました。
その頃は一人壕といって、爆撃の際に逃げ込む防空壕も、たくさんの人間が一箇所に入ることはありませんでした。分散した方が、被害を最小限に食い止められるからです。2つ3つ先の壕から、兵隊が出てこないのでおかしいと思ったら、破片が当たって死んでいたということもありました。戦場での生きると死ぬは、常に紙一重なのです。
こうして日本軍の飛行場は、ほとんど機能しなくなり、われわれ航空通信の仕事も撤退を余儀なくされます。ビルマに比べると、バンコクは差し迫った緊張感がありませんでした。到着してすぐ、分隊は仏領インドシナのナトラン飛行場へと向かい、ここで航空通信を受け持つことになります。すでに前年の12月、軍曹になっていた私は、現地で勲八等瑞寶章を受けることになりました。これは太平洋戦争開戦のとき、マレー半島に上陸する部隊との通信で、軍機電報を扱った功績によるものでした。
昭和20年の8月、私たち分隊に新たな命令が下りました。もう一度、ビルマに戻れという内容でした。その頃、死ぬことが怖いなんて、私自身は思っていませんでした。しかし、以前より戦況が悪化したビルマに戻ればどうなるかは、容易に想像できました。
ビルマに向かって出発した分隊は、転戦の途中、カンボジアのプノンペンにある飛行場へ立ち寄りました。8月15日のことです。仲間に挨拶しようと思っていたら、これから重大な放送があるので聞いていけと言われました。そこで、あの玉音放送を聞くことになります。
昭和16年3月、水戸の教育隊に入ってから4年以上が経っていました。日本での厳しい訓練、厳しい冬の満州から一転し、耐暑訓練で訪れた台湾、サイゴンへ上陸したあと、タイ、仏領インドシナを経て、生死の境をさ迷い続けたビルマ――。戦争が終わりました。
呆然と立ち尽くすもの、泣きながら悔しがるもの、虚脱感に襲われその場にへたれこんでしまうもの。終戦を聞いた兵隊の反応はさまざまでした。私は通信で、いかにこの戦争が嘘っぱちであるかを知っていました。目の前で多くの兵隊が死に、敗走を続けているにも関わらず、日本のラジオ放送は勝った、勝ったと伝えていたのですから。
部下には一言もいわなかったものの、負け戦だと確信していました。だから、戦争が早く終わるのに越したことはないと思ってました。しかし、いざ終戦の知らせを聞くと、胸には複雑な感情が渦を巻いていました。自分は死んでもいい、ただ若い部下だけは犬死にさせたくない。私を支え続けた、必ず守ってやるという使命だけは、果たすことができました。一人も殺さなかった、その安堵感を一番よく覚えています。
翌日、バンコクに向かい中隊本部と合流しました。寄らば大樹の陰ではありませんが、戦争が終わったあとのことを考えると、小さな分隊で行動するのは、何かと不都合があると考えたからです。この咄嗟の判断は、のちに正しかったと分かりました。戦争が終わると私たちは捕虜となり、タイで投降者生活を送ることになります。 |
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 | | 石渡弘三 | プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。 座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠 |
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