連載:第18話 5年ぶりに踏んだ日本の土
  戦争が終わり、捕虜としての生活は1年近く続きました。捕虜とはいっても、身の安全だけは保証されています。命のやりとりしていた戦争が終わったのですから、捕虜生活の辛さなど、それ以前に比べるたら天国みたいなものでした。
 加えて、ビルマを占領したのはイギリス軍です。捕虜に対しても紳士的な態度で接してくれます。南方ですから気候も穏やかでした。寒いシベリアの抑留者などと比べたら、まだ我々の捕虜生活は恵まれていたと思います。
 終戦とともに中隊本部へ戻ったので、1000人以上もの日本兵と一緒に行動することになりました。毎日の生活は、戦争の時と同じく分隊ごとに管理されます。常に拘束され身が不自由という訳ではなく、捕虜は一カ所に集められ、規律を保って自活せよというのが基本方針です。そのとき私は軍曹でしたから、英軍からの指示を受けて、それをみんなに伝えるのが主な仕事でした。
 指示の内容は、使役に関するものが多く、どこで、こんな仕事をしなさいという命令に応じていました。最も多かったのは、便所掘りです。1000人以上もの捕虜が生活するのですから、大変な数が必要になります。英軍は衛生管理がしっかりしていて、まず4〜5メートルくらいの穴を掘らせ、用を足すごとに上から砂で埋めていきました。しかし、こうした使役のおかげで、あれだけ多くの人間が狭いところに押し込まれていたにもかかわらず、悪い病気が流行ったりすることもありませんでした。
 こうした捕虜生活を続けるうちに、私はある異変に気がつきました。命をかけた極限の日々から、終戦を境に目的のない暮らしに変わったことで、多くの兵隊は生きるための張り合いを失っていると感じたのです。とくに血気盛んな若者たちほど深刻でした。このままではいけない。何かやらせないと、みんなおかしくなってしまうのではないかと、心配するようになりました。
 ある日、いつものように英軍からの指示を受けていたとき、私は演劇用の舞台を作らせて欲しいとお願いしてみました。捕虜の実情を訴え、みんなに芝居をやらせたいと言いました。英軍は意外にもあっさり、この申し出を認めてくれました。
 それからはもう、みんなが参加して、芝居にのめりこんでいきました。清水の次郎長もあれば、国定忠治もあり。分隊ごとに趣向をこらした出し物を考えます。何しろ1000人以上もいる大所帯です。ありとあらゆる職業を持った人たちの集まりでしたから、舞台の小道具を作るのも、衣装を作るのも本格的でした。中には、本当に役者をしていたという男もいたくらいです。みんな自分の特技を活かして嬉々としながら、月に2回開く舞台をめざしました。生活がみるみる変わっていったのをよく覚えています。
 そんな捕虜生活が半年くらい経った頃から、いよいよ日本への復員が始まりました。一度に全員が帰るという訳にはいかなので、分隊ごとに、どの船に乗れという命令が下ります。私が乗ることになった復員船は、航空母艦の「葛城」でした。飛行機の格納庫だったところに兵隊を入れるので、1万人くらい収容できる巨大な船です。昭和21年6月7日、タイのバンコクを出航。空母ですから足も速く、20日には浦賀に着きました。思えば、昭和16年に広島の宇品港を後にしてから、5年ぶりに踏む日本の土でした。
 真っ先に考えたのは、やはり藤代に残した家族のことでした。翌日、分隊を解散し、それぞれが故郷をめざします。一人も殺さず、無事に日本に連れて帰ったという満足感を胸に抱きながら、一人ひとりに別れを告げました。途中、破壊し尽くされた東京を通ります。終戦から1年近く経っているのに、まだ瓦礫の山が残る首都を見て、何でこんな馬鹿げた戦争をしたのかと怒りがこみ上げてきました。
 上野に着いてから、家族が待っているはずの藤代をめざしました。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠