| 連載:第19話 復員の翌日に職場へ復帰 |
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復員船で浦賀に着き、藤代の自宅に戻った翌日、入隊する前に働いていた、赤坂の電話局へ出勤しました。復員してから、いつ仕事に復帰しようと、その人の自由です。しかし、翌日すぐに出勤するというのは、かなり珍しかったでしょう。体はピンピンしていたし、何より一刻も早く働きたい気持ちで一杯でした。
あたり一面は焼け野原でしたが、赤坂の電話局はそのまま残っていました。当時も通信は重要施設であり、まわりに燃えてしまう建物があれば強制的に撤去していたので、建物だけは無事でした。瓦礫の残る東京はとても貧しく、食料を手に入れることすら困難な状況です。戦争のとき、航空通信を一緒にやっていた男が、1人だけ東京に住んでいました。出勤したその日に戦友を訪ねてみると、空襲を免れたようで、家だけは残っていました。
叔父さんの家族が焼け出されたらしく、家にはたくさんの人がいました。わざわざ出してもらったご飯が、ぬか団子でした。ぬかをメリケン粉でつなぎ、なんとか団子の形にして、みそ汁に入れて食べるのです。私は実家で白米を食べていたので、喉に詰まって飲み込むことができませんでした。
ぬか団子を食べるしかないほど、東京には食料がなかったのです。その点、田舎は恵まれていました。少なくとも食うものだけはあります。戦友を不憫に思い、のちに仕事と住むところを世話してやり、茨城に来いと誘いました。食料のある田舎でなければ、生活していけなかったのです。
当時はまだ祖母が元気で、家で飼う鶏を管理していました。戦争から帰ってきた私は、ひどく痩せ細っていたので、こっそり卵をくれたり、ご飯をたくさん食わせてもらったのを覚えています。海軍に召集された兄がフィリピンで戦死し、戦争から戻ってきたのは私と弟の2人でした。その分、祖母は孫のことを気にかけてくれ、食べることに関しては、とくに気をつかってもらいました。
こんな事情から、片道2時間以上もかけて、藤代から赤坂の電話局へ、毎日通うことになりました。1時間に1本くらいしかない、すし詰めの汽車で上野まで行き、そこから電車に乗り換えて、新橋から赤坂までは20分以上かけて歩きました。仕事を終えて帰るのも大変なことでした。しかし、ものは考えようです。東京と藤代を毎日往復するのですから、何かできることはないか考えてみました。
まず私は立派な革のカバンを買いました。そして、毎日2升の米を入れて東京に行きました。お米を欲しがっている人はたくさんいます。逆に田舎では石鹸がなくて困っていました。だから東京でお米と交換して、石鹸を藤代に持って帰ったのです。その頃、米2升で石鹸4個が手に入ったのですが、田舎では貴重なため、米4升に換えてもらえました。
つまり、朝あった米2升が、帰ってくると4升になる訳です。これを繰り返していくと、毎日2升ずつ米が増えていきます。食糧難の時代を物語るエピソードですが、ちょっと知恵を絞って、みんなが困っていることを解決してあげるというのは、のちの仕事でも活かされたように思います。
仕事に復帰してしばらくすると、赤坂の電話局は、戦争に行く前と全く変わっていることに気がつきました。優秀な人間は戦地に行っていたため、とにかく誰でもいいからと雇われた連中が、好き勝手なことをやっていたのです。機械室の中が寒いからといって、脚立を燃やして焚き火をしたり、全くひどい状況でした。
軍隊から戻ってきたばかりで、私も血気盛んでしたから、乱れた風紀を許することできませんでした。今だったら大変ですが、一人ずつ屋上に呼んで、根性を叩きなおしていました。戦争にいかないで、やりたい放題だった連中は、あっという間に規律正しくなっていきます。皮肉なことに、しばらくすると私は、社員教育をする教官に任命されました。若くして人を教えるという経験が、私にとって大きな財産になっていくのです。 |
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 | | 石渡弘三 | プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。 座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠 |
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