| 復員して赤坂の電話局に勤め出した私に、転機が訪れます。東京も着実に復興へと歩み始めた昭和24年、新しく開設された訓練所の教官に任命されました。戦時中に多くの人材が軍隊にとられ、誰でもいいからと採用された連中は、基礎的な教育すら受けていません。電話局としては、彼らを再教育したうえで、復興により増大する通信の需要に備えなければなりませんでした。
入隊する前、私には4年しか勤務経験がありませんでした。しかし軍隊で6年間、実務をこなしています。ちょうどその頃、かつての上司だった井田さんという人が、赤坂電話局の上層部に出世していました。以前から、私の仕事ぶりを評価してくれていた井田さんは、「軍隊とあわせたら、お前はもう十年選手じゃないか」と言ってくれ、教官の一人に私を指名したのです。
とはいえ、この人事は異例の抜擢でした。50人くらいの生徒を受け持つのですが、大半は私より年上です。電話局だけでの経験なら、私よりも長い生徒がいました。十分に準備を整え、これなら十分に話せるという材料を用意して授業にのぞみました。ところが、最後の方は話すことがなくなってしまうのです。はじめのうちは、授業中に立ち往生することもありました。
それでも、人前に立って話し続けていると、だんだん教えるコツがつかめてきます。生徒の心が、少しずつ読めるようになってきたのです。こちらの話を聞いてないときは、いくら堅い話をしても無駄です。柔らかい話に変えて、私の方に気持ちを集中させます。例えば、ビルマでの戦争体験を話すと、生徒は目の色を変えて聞いてくれました。気持ちを引き寄せたら、ぱっと中身を切り替えて、教えるべきことを話し始めます。こうしていくと、生徒の中に知識が残っていくのです。
学校の授業なら教えるだけでも構いません。しかし、これは部内の教育ですから、局員が仕事をできるようにならないと、何の意味もありません。ときには授業の間ずっと、心ここにあらずという生徒もいました。呼び出して個人的に話してみると、「食料の買出しにいかないといけない。家族で食べるものがない」と言うのです。私は生徒に、藤代の農家を紹介し、買出しの段取りまで都合をつけてやりました。そんなことも、教育の中では大切になってくるのです。
教官は約2年ほど続けましたが、その間にもう一つ貴重な経験をさせてもらいました。三重県の鈴鹿に大きな訓練学校をつくることになり、出張して開設前の準備に携わりました。私が担当したのは、授業に必要な教材をつくることです。例えば、電気はなぜおこるのか、直流と交流はどう違うのか、分かりやすく教えるために、玩具のような教材を作るのです。
これも最初は上司にやらされたことですが、この仕事に関わったおかげで、「自分の頭で考えて作る」という作業が、習慣として身につきました。いろんなテーマを与えられるうちに、考えること、そして形にしていくことが、楽しくなってきました。いま振り返ると、上司にも恵まれ、上手に育ててもらったのだと思います。
若くして教育に携わったことは、その後の人生をも変える、私の大きな財産になりました。自分の頭で考えて、モノを作っていくのは、いわゆる発明的な発想です。のちに交流磁気治療器を開発するとき、この習慣がものすごく活かされました。また、生徒の前で話すという経験は、治療器を広めていく健康講座などに活かされています。どうしたら、みんなの心に私の言葉が届くのか。それは訓練所での授業が土台になっています。交流磁気治療器の開発と普及の礎になったのが、実はあの当時の教育体験なのです。 |