| 連載:第21話 結婚そして東京での暮し |
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戦後の復興は着々と進み、首都東京は瓦礫の山に覆われた焼け野原から、すっかり姿を変えていました。サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本が国際社会に復帰した昭和26年、私は結婚し自分の家を構えることになります。
女房との馴れ初めは、通勤で藤代から東京へ向かう汽車の中でした。彼女はその当時、洋裁学校へ通っており、いつも座って編み物をしていました。おとなしそうな女性で、気になっていましたが、ある人を通じて、もらってくれないかという話がありました。恋愛でも、見合いでもない結婚でしたが、お互いの実家から近い藤代に建てた家で、養母と3人の生活が始まりました。
ところが、一家の主となった私には、悩みのタネがありました。養母が女房のことを気に入らないのです。最初から招かれざる客のような扱いでしたが、ある日突然、2人を別れさせようと、養母が家出してしまいます。
「産みの親なら別としても、私には育てられた恩がある。だから養母を選ぶ。俺と一緒にいたければ、我慢しなさい」と、女房に言い聞かせました。なんとか2人の仲がうまくいくよう、私もできることはやりました。しかし、養母が家に戻ってからも、まったくうまくいきません。結局は養母に、お前はどちらを選ぶのかと、決断を迫られました。
のちに3人でまた一緒に暮らすのですが、しばらくお互いに距離を置いた方がいいと思い、女房と2人で東京へ出ることにしました。現在の本社からも近い、早稲田に借りた6畳一間の古いアパートで、東京生活がスタートしました。家財道具はすべて藤代にあり、持ってこれないので、部屋にはミシンくらいしかありませんでした。
あの頃は2人ともよく働きました。女房は上野の百貨店にコネがあり、売り場の担当者から要望を聞き、婦人服や子供服を作っていました。仕事の合間には、私の背広やコートも作ってくれました。たった一つの家財道具だったミシンのおかげで、食べること、住むことに関しては、女房の稼ぎで賄うことができたのです。
私の仕事も順調でした。結婚した翌年、日本電電公社法が施行されました。公社になり、職場の雰囲気は一変します。それまではみんな役人的で、いくら仕事をしても、給料や昇給にほとんど差はありませんでした。
この頃から毎年のように、私は発明考案の表彰を受けていました。例えば当時、電話番号の案内業務に出ない社員がいました。それを監視するため、上司は常に職場を巡回していたのですが、電話に出るとそこにランプがつく装置をつくったのです。こうすれば、監視は一人で済みます。当たり前の仕事ですが、当時は職場を改良しようという発想はありませんでした。こうした発明が評価され、電通記念日のたびに表彰されていたのです。
2人の生活も軌道に乗り、1年ほど経つと、私たちは東京で家を買うことにしました。今の自宅からも近い目白に、かつて徳川様の屋敷跡があり、敷地を6つに分けて、建売住宅を売り出していたのです。
ところが、これはとんでもない曰くつきの物件でした。私たちが住んでから間もなく、突然、司法省の役人がやって来て、家中に差し押さえの赤紙を貼っていきました。私には何のことかさっぱり分かりません。役人は「あなたは善意の被害者」だと言うのです。
真相はこういうことでした。私を含めて敷地にあった6軒の家は、不動産業者が勝手に建てたもので、土地はまったく別の人が所有していたのです。法律では業者を訴えることはできず、建物を所有し土地を占拠している私たちが、裁判にかけられました。知らなくて買ったのだから、あなたたちも確かに被害者である。安く分けるので、土地の代金を払えということでした。
この裁判を通して、私は多くのことを学びました。善良である、知らなかった、騙されたと言っても、結局は知識のあるヤツにかなわないのです。何だって知識を持っていることは大切だと痛感させられました。 |
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 | | 石渡弘三 | プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。 座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠 |
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