連載:第22話 長男・長女の誕生 5人の家族に
  東京に出て暮らし始めた私たち夫婦に、待望の子供ができました。結婚から2年目、昭和28年のことです。しばらくの間、藤代の養母とは離れて暮らしていましたが、初めての孫ができるのを機に、東京へ出てこないかと誘いました。気に入らなかった女房との間に、少し距離をおいたことで、逆にお互いの溝は小さくなっていました。何より、孫が生まれるのは養母にとっても大きな喜びです。結婚以来、私を悩ませていた問題が一つ解決しました。
 4月に逓信病院で産まれたのは、4000gを超える大きな男の子でした。これで我が家は4人の家族となり、平凡ながら幸せな毎日が始まりました。その当時、私は竹橋にあった東京電気通信局で、自動電話交換機のオーバーホールを担当していました。戦時中に全くメンテナンスをしないで使っていたため、東京中の電話網は危機的な状況が続いていました。修復作業の企画責任者として、私は電話局を蘇らせていく大きな使命を担い、仕事も家庭も順風満帆でした。
 ところが、すくすくと育っていたはずの長男が突然の高熱で脳出血をおこし、幸せは一朝にして崩れ去ります。わずか生後37日目のことでした。40日間に及ぶ入院で、長男は一命をとりとめたものの、左半身の麻痺と、言語・知能障害が残りました。自宅に戻ってからも、毎日、数回のひきつけを起こし、女房は付きっ切りで長男の面倒をみなければなりませんでした。
 この出来事が、私と家族にどれほど大きな影響を及ぼしたのかは、これまで著書や講演などで何度もお話してきた通りです。子供のために、少しでも良い治療法を求めて病院を転々としながら、ミシンで洋裁の仕事を続けた女房には、本当に頭の下がる思いでした。小さな長男の将来に、計り知れないほど大きな不安を感じている彼女が、もう一人子供を育てることに躊躇するのは無理もないことでした。
 しかし、このまま子供の暗い面だけ見ているのは、私たち夫婦にとって良いことではないと思いました。明るい面を知るためには、我が家に健康な子供が必要だったのです。長男は病気なのだから、心配することは何もありません。もう一人、子供を育ててみようと、ためらう女房を説得しました。
 昭和30年に生まれた長女の弘美も、4000gを超える大きな赤ちゃんでした。この子がすくすくと元気に育ってくれたことは、私たち家族の希望になりました。母親はお兄ちゃんの面倒をみるので手一杯でしたから、弘美に不自由をかけた面はあったでしょう。しかし、兄の病気は十分に心得ていたので、自分がこの家を支えるんだという強い責任感を持って育ったと思います。のちに大学へ入ったあと、弘美は奨学金までもらってドイツへ留学し、向こうでも優秀な成績を残しました。小さな頃から、自分でやると決めたら、必ず実現する根性を持った子でした。
 養母を迎え、子供が生まれて5人になった私の家族ですが、いつも病気を抱えた長男が中心でした。私はこの家の主として、人の2倍も、3倍も働こうと思いました。この子を何とかするためにはお金がいる。将来を考えたら、お金を残しておく必要がある。家族に何ひとつ不自由のない暮らしをさせてやろうと、固く心に誓ったのです。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠