| 連載:第24話 労働組合を押さえ込め |
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私は自宅に部下を呼んで、みんなと酒を飲み、一緒に騒ぐのが大好きでした。雑司が谷の新居に移ってからも来客は頻繁で、これは電電公社を辞めるまで続きました。正月はとくに盛大で、かつて一緒に働いた部署ごとに部屋を分け、梯子しながら飲んでいたほどです。家族はみんな嫌がり、のちに糖尿病を患ったのも酒が原因でした。しかし、裸の人間同士が語り合い、部下に慕われたことが、私の仕事にプラスになったことも事実です。
昭和35年、当時は東京のはずれで場末と言われた玉川分局に、機械課長として着任することになります。私には一つの使命が与えられていました。その頃の分局は労働組合の力が強すぎたため、業務にも大きな支障が出ていました。その混乱を沈静化するのが、私に課せられた仕事だったのです。それまで調整課に籍をおき、自動交換機のオーバーホールで責任者を務めていた私には、たくさんの部下がいました。中には熱心な組合員もいましたが、その対応を評価していた上司が、私にならできると見込んで送り出したのです。
玉川分局では、組合活動を押さえつけるため新しい上司が乗り込んでくると、身構えていたのかもしれません。どんな奴がきたのかと、最初は随分と警戒もされていました。しかし実際には、私の仕事ぶりを見て、拍子抜けした組合員が多かったことでしょう。何しろ私のやり方は、組合の要求を徹底的に聞くことから始めたからです。
よくよく聞いてみると、当時の彼らが要求していたのは、ほとんど職場の環境改善でした。本来は管理者がやるべきことであるのに、それができていないから不満が募り、組合活動はだんだんと過激になっていきます。もともとの身近な原因を一つずつ取り除いていけば、活動も沈静化し、職場は正常に戻っていくはずです。
かつて、オーバーホールの責任者をしていたときもそうでした。部下が職場で要望していたことを、一つずつかなえていったのです。要はお金さえあれば、実現できることばかりです。お金は頭一つで、知恵さえ絞れば、もらってくることは可能です。以前と違って、今度は予算も十分にありました。何しろ私のバックには、公社のお偉いさんが付いていて、組合を沈静化させるという特別の任務を背負っていたのですから。
分局につくと、すぐに私は要望の実現に着手していきました。ひどく汚ないため、リラックスできない休憩室を、きれいな最新の設備に入れ替えたり、組合の要求をかりて次々と職場の改善に取り組みました。不思議なもので、人間というのは住む世界が快適になると、心のあり方も変わっていくのです。殺伐としていた場末の分局は、徐々に変わっていきました。何しろ予算を持ってきて、組合の要求がどんどん通るのですから、先鋭化して職場を混乱させることは無くなってしまうのです。
あとは組合から選ばれる委員のうち、私と意思が通じている職員で過半数を占めてしまえば解決します。こうして実績をあげた私は、その後も組合の活動が盛んな、混乱している電話局へ送り込まれるようになりました。同僚は大変な仕事だと気遣ってくれましたが、予算も十分に与えられ、次々と職場を改善できるのですから、私は楽しくて仕方ないと思っていました。
組合を押さえ込むといっても、まずは相手の話を聞くことから始めなければなりません。言ってることが理にかなっているなら、それを実現するために努力すればいいのです。成果を積み重ねれば、相手の考えは変わります。職員は思想や信条よりも、どちらが強いのか、どちらに付けば得なのかを見ているだけなのです。そこを見抜くことができたのが、この仕事から得た一つの財産だったと思います。 |
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 | | 石渡弘三 | プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。 座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠 |
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