連載:第25話 我が家に自動車がやってきた
 昭和30年代の後半、敗戦から立ち直った日本は、高度経済成長の真っ只中にありました。当時、多くの大衆が求めたテレビや冷蔵庫、洗濯機といった憧れの製品を、我が家でも一つずつ、買い揃えていくことになります。それぞれ最初に買ったときの思い出というのはありますが、他の家でもそうだったように、やはり初めて自家用車を購入にしたときのことは、強く印象に残っています。
 我が家に自動車がやってきたのは、昭和37年のことでした。まだ日産のブルーバードが出たばかりの頃で、私が免許をとった3日後に買いました。そのころ電電公社の職員で、マイカーを持っていたのは、私以外に誰もいませんでした。しかし、そんな早い時期に、自動車を買わなければならなかったのには、理由がありました。
 いつも病院に通い続けていた長男は、乗り物が大好きでした。タクシーに乗って病院へ行くと、いつまでも乗っていたいものだから、シートに岩のようにしがみついて、なかなか降りようとしません。タクシーはお客さんが降りないと商売にならないので、いつも大変です。そのうち諦めるまでお金は払うから、しばらく乗せてやってくれと言ったこともありました。
また、ある時は勝手に家を抜け出した上、よその家にあがりこんでしまったため通報されてしまいました。家のものが見つけ出した時はパトカーの中でした。ふだんから大好きな自動車、その上いつも「うーうー」とあこがれていた車に乗れたものですから本人は有頂天でこれも断固として降りようとしない・・・困りはてたものです。
そんな我が子をみるうちに、無理してでも自動車を買ってやろうと決心しました。
 それからは、よく長男を車に乗せて、羽田の飛行場へ出掛けました。今とは違って、東京の外れにある埋め立て地は、とても寂れた場所でした。もちろん車に乗って行くのも楽しいのですが、長男はそこで、飛行機を見るのが大好きでした。私が休みの日になると、日が暮れるまで二人で大空を舞う飛行機を眺めていたものでした。
 自家用車についてはもう一つ、今思うと笑い話のようですが、忘れられない思い出話があります。買ってまもなくのこと、大枚をはたいて買った車だから事故などあってはいけないと早速成田山までお払いに行きました。当時の道路事情は筆舌に尽くしがたく、6歳の長女などはでこぼこがある度に天井まではずみ、到着することには車酔いとあいまってげんなりしてしまうほどでした。
 その道中のことです。私も今では年のせいか大分性格がまるくなりましたが、当時は誰かに抜かれると抜き返さずには済まないほどの負けず嫌い、最初の遠出にもかかわらず抜かれた車を追いかけて接触、ナンバープレイトがポーンと何十メートルも飛んでしまいました。お払いの旅が最初の事故になってしまったのです。同上していた部下がナンバープレイトを追いかけて走るは、私は私で相手に平謝りと散々でしたが、幸い誰にもケガがなく相手の許しも得て、これはこれで一つの厄払いかと最後には笑いあったものです。
 最近「ものより思い出」という広告がありましたが、思い出すと「もの」に「物語」があった古きよき時代でもありました。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠