| 雑司が谷に新居を建ててから、しばらくして2階の部屋を貸すことにしました。公社の給料は公務員に準じたもので、家は建てたものの、家計のやり繰りにゆとりはありませんでした。1階は家族だけのスペースでしたが、玄関や廊下の一部は共用になっていたので、一つ屋根の下に暮らすアットホームな雰囲気です。小さい頃の弘美は、2階へ行って、芸達者なお姉さんに歌を習ったりしていました。のちに俳優になった役者のたまごもいたり、いろんな人が我が家に住んでくれました。
もちろん、大家になって大変なこともありました。今のアパート経営とは違い、当時は契約といっても、いい加減なものです。保証人などもいませんから、あとから詐欺師と分かった人や、朝鮮半島からの密航者まで、住んでいたこともありました。
一番困ったのは、2回もあった自殺未遂です。一度は睡眠薬でしたが、ガスで死のうとされたときは大変でした。第一発見者が機転をきかせて、窓を開けたからよかったものの、もし先に電気をつけていたら……。おそらく、我が家は吹き飛ばされていたでしょう。今では笑い話になってしまいますが、良いことも悪いことも、すべてはいろんな人がいたからこそ、振り返ると楽しい思い出になるのです。
とても賑やかな家になりましたが、それは2階の住人だけではありません。我が家には、次第に甥や姪もたくさん住むようになりました。当時は田舎から東京へ出てくるとき、まず最初に親戚の家を頼りにしていたものです。就職や進学で東京にやって来た、女房の兄弟の子供たちを、最も多いときで3人ほど面倒みていました。
とはいえ、1階の家族のスペースが、広い訳ではありません。うちの家族が4人で一部屋、もう一部屋に、養母と姪などが4人で寝ていました。現代の住宅事情から考えると、想像もできないほど窮屈ですが、たくさん子供たちがいるのは、賑やかで楽しいものです。私は弘美のために、こうした環境を作ってあげたいと考えていました。
長男の病気があったため、弘美は事実上、一人っ子のようなものでした。そのことを、いつも不憫に思っていました。私自身も子供の頃は、養子に出された家で、一人っ子として育てられています。溺愛してくれた養父が、早く亡くなったこともあって、兄弟のいない寂しさはよく分かっていました。
それでも、私には救いがありました。育った環境は一人っ子でも、実際には血を分けた兄弟がたくさんいたからです。その点、甥や姪たちが、我が家を頼って上京してくれたのは、ありがたいことでした。弘美のために兄弟をつくってあげられなくても、一緒に暮らしていれば、兄弟のように育てることができるからです。私も甥や姪には、我が子と同じように接しました。実際に弘美も、いとこたちを兄弟のように慕い、今でも心の支えになっているはずです。
私の子育ては、どちらかというと自由放任で、子供のやりたいようにさせるというものでした。勉強をしろと言ったこともないですし、厳しく叱ることもありませんでした。ただ一つ、子供がのびのびと育つ、環境をつくってあげることには熱心でした。今でも、それこそが、親の大切な務めだと思っています。 |