連載:第27話 伊豆の別荘にまつわる思い出と醒めない夢の続き
 メキシコオリンピックのあった昭和43年、私は伊豆に別荘を購入しました。渋谷でホテルや、電電公社の社員寮などを経営していた方に紹介され、一目みて気に入りました。雑司が谷の自宅は、都心にあって便利とはいえ、日々働くための住環境でした。将来は伊豆に移って、長男と一緒に余生を過ごせたらどんなに素晴らしいだろう…。そんな夢を抱きながら、私は別荘を持つことにしました。
 伊東の駅から、車で5分くらいの高台にあった別荘は、相模湾を見下ろし、遠くは伊豆大島までを見渡すことができました。1階には家族専用の部屋と食堂など、2階にも3部屋あり、眼下に絶景が広がる、とても大きな家でした。温泉の源泉をホースで引き込み、お風呂にも使うなど、そのまま民宿として経営できるほどの設備でした。事実、私はここで何か商売をできないだろうかと、真面目に考えたこともありました。
 別荘には、常に20組ほどの布団が用意されていました。ここに公社の部下などを呼んで、飲んで食って大騒ぎをするのです。いま思えば、そこまでして部下と付き合う上司は、私以外に一人もいなかったでしょう。ただ、家族には随分と迷惑をかけたと思います。料理を作るのはもちろん、これだけ大きな別荘ですから、掃除をするだけでも大変です。布団を干すだけでも、20組以上あるのです。女房は今でも、あの別荘には良い思い出がないと、嘆くことがあります。
 部下と飲んで、本音の付き合いをしたことは、仕事を進めるうえでも、有意義なものでした。ただ、自分が好きでないことは、一生懸命にできないものです。私が根っからの親分肌であること、そして心底、お酒を飲んで騒ぐことが好きだったから、別荘に20組も布団が必要だったのです。お銚子では間に合わないので、私はいつも一升瓶を膝に抱え、際限なく酒を飲み続けていました。飲みながら食うのも、ものすごい量です。とくに魚が大好きで、暴飲暴食や不摂生なら、すべてやり尽くしたという自信があります。
 そんな生活が体に良い訳はなく、糖尿病になったのも無理ないことです。結婚した頃に60キロだった体重は、10数年で20キロ以上も増えていました。最も太っていたときで83キロ、空腹時の血糖値は400を超えていたのです。別荘を買ったころは、女房の食事療法のおかげもあって、少し落ち着いていましたが、それでも酒をやめて、おとなしくなったりはしませんでした。
 このようによく遊ばせてもらった別荘でしたが、いま思うと本当に楽しかったのは、持つまでの間だったと思います。手に入れようと努力しているときが、最も輝いている時間でした。実際に買ってしまうと、あっけないというか、現実に起こる面倒なことの方が気になってしまうのです。夢をかなえてしまったあとに残るもの。夢の向こうに何があるのかを、私に教えてくれたのも、この別荘だったような気がします。
 のちに伊豆の別荘は、売りに出すことになりました。交流磁気治療器を開発するために、まとまった資金が必要だったからです。古い夢は、次の新しい夢のために、役立ってくれました。しかし今度の夢は、決して醒めることがありません。どんなに努力し、障害を乗り越えても、飽きることなく夢中になれるものでした。それはきっと、交流磁気治療器を世に送り出し、各家庭に普及することが、私に与えられた、大きな使命だと感じていたからでしょう。
 80歳を超えた今もなお、新しい交流磁気治療器の開発に取り組んでいます。こうして挑戦を続けながら、世のため、人のために役立てることを、私は心から誇りに思っています。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠