連載:第28話 奨学生に選ばれ長女の弘美が西ドイツへ留学
 オイルショックに日本中が揺れた昭和49年、長女の弘美は上智大学へ入学しました。将来、心理学を学びたいと言っていた弘美は、高校時代からドイツ語を学んでいました。レベルの高い語学教育を受けるため、自ら選んだ大学にストレートで合格したのですから、親として、こんなに嬉しいことはありません。上智を落ちたら大学へは行かず、別のことをやると言っていましたので、とても意思の強い子だと思いました。
 私は勉強をしろと言ったこともなく、子供が成長し思春期になっても、放任主義に変わりはありませんでした。受験についてもまったく意見せず、弘美が決めたことを、後から聞くだけでした。ただ、子供が選んだことは、精一杯やらせてやりたい。そして将来は、自分の好きな道へ進んで欲しいと願っていました。
 大学に入学してから、半年くらい経ったある日、弘美が西ドイツへ留学したいと言いはじめました。話を聞いてみると、産経新聞の財団が後援している、奨学生の一次試験に受かったということでした。学費や生活費はすべて支給され、応募者も多く狭き門だが、最終試験までいって合格したら、留学させて欲しいと言いました。
 これまでもそうだったように、しっかりと考え抜いて、自分で決めてから親に報告するだけですから、駄目と言っても、おそらく聞かなかったでしょう。決めたことは、必ずやり遂げる。それだけ意思の強い子です。自分でやりたいことを見つけたのだから、女房が反対するのはともかく、私だけは応援してやろうと思いました。
 アメリカや英国などをあわせ全部で20人、西ドイツはわずか4人でしたが、その後の試験にも合格し、弘美は留学生に選ばれました。新聞に写真入りのインタビュー記事が掲載され、子を持つ親として、これほど誇らしいことはありませんでした。とはいえ、不安もあります。今とは違い海外留学なんて、違う星へ行くようなものです。ましてや女の子を、親の手が届かない異国の地へ、たったひとりで送り出すのです。目の前では平気なふりをしても、内心は穏やかではありませんでした。
 女房も説得し、翌年19歳になった弘美は、西ドイツへと旅立ちました。海外電話も当時はコレクトコールしかなく、近況を知らせるのは、ときどき寄こしてくる手紙だけです。当たり障りのない、日常を綴った文章も、そのときは唯一の親子のつながりでした。今でも、西ドイツから届いた手紙は、すべて大切に保存してあります。
 当初は一年の予定だったものの、もらった奨学金を節約し、少しずつ貯めたお金で、もう半年ほど留学を続けることになりました。ところが、日本へ戻る日が近付いても、一向に連絡の手紙が届きません。ひょっとして、向こうに永住するつもりじゃないのかと、不安がよぎりました。しびれを切らして、コレクトコールで寮に電話をかけると、本人が電話口に出てきました。怪我で右手の骨を折ってしまい、手紙が書けなかったと言うのです。
 帰国予定の日、私は羽田まで迎えに行きました。果たして本当に帰ってくるのか、不安は残っていました。手に包帯を巻いた弘美が、ゲートから出てくるのを見たとき、ようやく安堵しました。一年半ぶりにみる我が子は、親の目にもたくましく映ると同時に、自立した大人として、もう親の手の届かないところにあるのも実感しました。
 この一年半は、私にとっても大きな変化がありました。そのとき私は伊東の別荘を売り、自宅も抵当に入れて、交流磁気治療器の開発にのめり込んでいました。以前から家族は猛反対で、弘美とは西ドイツへ行く前、絶対に無茶なことはしないと約束させられていました。空港から自宅へと向かう車の中で、まず私は、約束を破ったことを打ち明けなければなりませんでした。
石渡弘三
プロフィール:大正9年、茨城県生まれ。昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。昭和16年、航空通信教育隊に入隊。インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。医療用具の認可を受けたのち、昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠