


石渡 弘三
大正9年、茨城県生まれ。
昭和11年に逓信省(東京逓信局東京工事局。のちの電電公社で、現在はNTT)に入省。
昭和16年、航空通信教育隊に入隊。
インパール作戦に参加したのち、終戦を迎える。
昭和21年に復員、昭和50年に退職するまで電電公社に勤務。
この間、病気と闘う家族のために、独自に交流磁気治療器の開発に取り組んだ。
医療用具の認可を受けたのち、
昭和57年に(株)創健販売(現在のソーケンメディカル)を設立。
座右の銘は「己に克て」
平成17年4月肺炎のため永眠
開発者 石渡弘三ストーリー
己に克て
目次
第1話 波乱の人生のスタート
私は幼少の頃、現在の中央区京橋1丁目に両親とともに住んでおりました。日本橋の高島屋がまだ京橋にあった頃で、父は高島屋の従業員食堂を経営していました。私の家は、中央通り(当時は市電通り)の西側、東京駅寄りにあり、高島屋は東側にありました。毎日、夕方になるとお風呂に入り着物に着替えて、中央通りの手前まで父を迎えに行くのが日課でした。一人っ子で我がままを言いながら育ちましたが、母が厳しい人で小学校に入学する前、毎日、カタカナとひらがなの五十音を全部書かされました。
昭和4年、ドイツからツェッペリンという飛行船が飛来しました。その年の8月25日、父は蓄膿症の手術の後遺症により、44才でこの世を去りました。母と2人、東京で生活するのは無理でした。 私は小学校4年でしたが、茨城県藤代にある母の実家に身をよせることになり、藤代の小学校へ転校いたしました。
茨城の母の実家は兼業農家で叔父さんが国鉄に勤め、あとの人たちは農業をやっておりました。叔母さんがとても優しい人で、私を陰になり、日なたになって可愛がってくれました。なんという優しい叔母さんだろうと思いながら、5人のいとこと共に平和に育てられました。
その優しい叔母が、私が小学校6年の3月、急性心不全で幼い生まれたばかりの従弟にそえ寝をしたまま、突然死してしまったのです。私は叔母の死が悲しくて悲しくて泣きぬれていました。お葬式に集まった親せきの叔父さんや叔母さんが私の姿をみては、「やっぱりしん親は違うね」とささやきあっているのです。不審に思って従兄を問い詰め、私が幼いときに実父の妹、叔母のところに、もらわれていったのだということを始めて知りました。
母と思っていた人が叔母で、死んでいった優しい叔母が母であったとは……。
今までいとこと思っていた5人が兄であり姉であり、弟や妹であったのです。世の中が真っ暗になりました。本人の意志をまったく無視して、両親や兄弟から引き離してしまった育ての親を、うらめしくさえ思いました。私は一日も早くこの人たちから離れて、独立したいと思いました。
そのため、進学しようとしていた中学校に行くのを止め、小学校6年卒業と同時に独立して上京することを考えました。そのときの担任の先生が、羽田通先生でした。先生は、「これからの社会にでるには、小学校だけではだめだ。中学に行かないのなら、せめて高等小学校2年だけでも学びなさい」と熱心に勧めてくださいました。この羽田先生の熱意で、私は高等小学校の2年間を勉強することにしました。
この羽田先生が、いまから20年前、創健B型の1号機をプレゼントした先生です。「胃腸が弱くて長生きできない」と言っていたのに、90才を過ぎた現在も、カクシャクとして人生を楽しんでおられます。この先生がいなかったら、今日の私の人生はなかったと思います。
突然の実母の死は、私の性格を一変させました。極めて明るい性格が、もの思いに沈む内向的な子供になってしまったのです。死んで優しかったお母さんの側にいきたいと思ったことも、たびたびありました。幡を手に。上から2段目右端高等小学校1年の担任が、お寺の坊さんの子として育てられた寺西了雪先生でした。元気のない私を優しく見守ってくれていた先生が、ある日の放課後、小貝川堤の散歩に連れていってくれました。
私は小さな胸にたたんでいた自分の苦しみを訴え、死にたい気持ちをお話しました。私の話を頷きながら聞いた先生は、「お前はすべて自分のことばかり考えていて、廻りの人の気持ちは何も考えていない。お前の両親も、大勢の兄弟と一緒に育つより、叔母さんのところの一人っ子になって育った方が幸せになるであろうと思ったから養子にしたので、育てのお母さんだってお前を大切に育ててくれたはず。兄弟だって、お前の幸せを願っていたと思う。その人たちの気持ちを何も考えず、自分一人が不幸だと思うのは大変な思い違いだ。世の中には、お前より不幸な人はいくらでもいるんだ。お前も死ぬなんて考えずに生きることを考えるんだ、生きて、生きて、生きぬいて人のために尽くすんだ。自分のためより人のために生きるんだ」とおっしゃいました。
先生の温情あふれる言葉が、その後の私の人生を大きく変えたと思います。羽田通先生、寺西了雪先生、私は本当に良い師に恵まれたと思います。




第2話 商売の原点を知る
昭和9年の3月に、藤代の高等小学校卒業を卒業しました。
その頃、私は何か物を作りだす仕事をしたいと思っていました。
しかし、養母は私を勤め人にしたいという希望があり亡き養父が働いていた高島屋を受験することになり、上京いたしました。上京してお世話になったのが、養父の親せきで、向島の業平橋にあった「丹波屋」という魚屋さんでした。高島屋の受験まで日数があり、遊んでお世話になるのが心苦しく、魚屋さんのお手伝いをすることになりました。
ご主人は病身で、子供たちやおばあさんと療養に行って、店は奥さんとご主人の弟さんでやっていました。叔母さんは40才くらいで、ご主人の弟さん(かねちゃん)は25才。15才から他のお店の修業に出て、5年間修業を積み、実家に戻ってから5年。 魚屋として腕に自信が持てる年で、平目などの盛り合わせ、お作りは芸術品と思えるほど見事でした。
仕事の分担は、かねちゃんが早朝の買い出しと百軒くらいのご用聞き、奥さんは主にお店の番です。夕方、忙しくなると、2人ともお店に出ていました。私は、ご用聞きと店番の手伝いをすることになりました。紺のもも引き、腹がけ、半てんの可愛い可愛い魚屋さんです。ご用聞きの遠廻りは、かねちゃんがやり、近くを私が廻りました。午前中に注文をうけ、作って午後3時頃から配達。夕方からはお店に来るお客様の対応、夜は片づけで2つあった大きな白木造り冷蔵庫みがき、毎日の明け暮れは大変なものでした。
しかし、私はこの生活の中で、お魚の調理方法を覚えました。人間はやろうと思えば何でもできるという気持ちを、この時期、自分の体に教えることができたと思います。
昭和9年9月、高島屋に入社できなかったので、お世話になった魚屋からお暇をもらって茨城に帰りました。その頃、川崎市に住んでいた親せきから、「衛生 材料の工場に住み込みで勤めてみないか」というお話しがありました。物を作る仕事をやってみたいと思っていた私は、工場で勤めることにしました。衛生材料工場の経営者は、白十字の社長をやっていた人の甥にあたり、奥さんはお店をもち、糸屋をやっておりました。私は社長の自宅の糸屋に住み込み、お隣りの衛生材料工場へ通うことになりました。工場の作業員は3人で、親会社の白十字から材料を仕入れ、脱脂綿、ガーゼ、包帯を作って京浜地区の薬局に卸し をやっておりました。工場では脱脂綿、ガーゼの折込み包装や、包帯の巻きこみ裁断包装などの作業を始めました。
手先の器用だった私は、1カ月もすると一人前の仕事ができるようになり、全員が年長者であった工場で可愛がられ、本当に楽しい職場でした。
営業関係はご主人の専門でした。京浜地区を自転車で走りまわり、注文とりから配達までやっていたため体調をくずされ、私は入社2カ月目から営業のお手伝いするようになりました。自転車に乗って、東京地区は今の文京区白山下から、横浜方面は本牧のお客様まで広範囲でした。雨の日や風の日は大変でしたが、配 達は朝早くお店が開くころには届けられるように配達が終わると御用聞きで飛びまわったものです。
大変なのは売り上げを伸ばすことでした。お客様の出入りの多い薬局を探して、午後からお手伝いをするのです。店先に待機し、戸外に並べたものが必要な場合、薬局の人が外に出なくてもすむよう、お客様の対応をしてあげるのです。お手伝いを3日ほどすると、帰りに脱脂綿10個、包帯10本とか、わずかですがご注文をいただけました。
一度でも、ご注文がいただけると商品が良くて価格が安かったので、継続してご注文がいただだけるのです。暑い日も寒い日も、 そんなお手伝いをしながらお得意様を拡張していきました。
お客様が何を求めているのか。そのお客様の気持ちになってお手伝いをする。そんな考え方で心をこめて行なえば、相手の心をゆさぶります。
それは昔も今も同じで、お客様の反応は必ずあると思います。

第3話 仕事を任される喜び
川崎の衛生材料工場で営業を担当していた私に、新たな試練が訪れました。朝食のとき一緒に食事をしていたご主人が、「障子の桟が良く見えない」というのです。奥さんが近くの眼科に連れていくと、「内臓関係からきているので、大きな病院にみせたほうがいい」と言われ、信濃町の慶応病院に入院させました。病院でどんなことをしたか、私には知る由もなく、入院3日目でご主人は亡くなりました。
葬儀が終わると親族会議があり、奥さんの糸屋は維持するが衛生材料工場は閉鎖し、社員はみんな退職することになりました。奥さんから「糸屋の方に残って手伝ってくれないか」と言われたのですが、「糸屋の小僧で終わりたくない」という気持ちもあって、申し訳ないがとお暇をいただきました。1年ぶりで藤代に帰ると、市川の叔母(養母のいとこ)から、「文房具のお店を手伝ってくれないか」というお話しがありました。
市川の叔父は、国分小学校 の前に大きな文房具店をかまえ、叔父さん自身は2人の社員と教科書を販売し、叔母は文房具店を1人でやっていました。子供はなく、養女をもらって幼い子との3人暮らし。叔母は「お店と子育てにくたびれた。お店は任せるからやってもらえないか」と言うのです。小学校の生徒は千人もいるというし、しかも文具店は一軒だけ。これはやり甲斐のある仕事と思い、お手伝いをすることを決意しました。養母は「個人のお店の手伝いなんて」と反対しましたが、私のたっての願いに、しばらくの間ならということで同意してくれたのです。
当時の国分は、国鉄の市川駅の町並みが外れてから、一田んぼ越えたところにあり、私の故郷、藤代よりも片田舎という感じでした。叔母のお店は結構大きく、文房具以外に菓子やパン、おせんべい、くずもち、ラムネなどまで売っていたのです。学校の休み時間や放課後になると、どっと子供が押しかけてきます。叔母の家についたその日から、雑踏のような子供との戦いが始まりました。文房具は品数が多く、値段を覚えるだけでも大変でした。学校の休み時間にどっと押しかけ、休み時間が終わると、さっと消えてしまう生徒、一人ひとりは1銭、2銭、5銭、10銭の積上げです。それでも、売上は毎日10円前後あるのですから、大変な数のお客様を相手にしていました。
叔母さんはだんだんとお店を手伝わなくなり、お昼休みの一番お客様が多いときだけ私に手を貸し、仕入れから売上管理まで任せてくれるようになりました。毎日の売上、仕入台帳をみていますと、忙しいわりに利益率が低く、儲けは1割~2割どまりなのです。その頃、仕入れの一切が配達でした。文房具、菓子類とも、ご用聞きが来て配達してもらっていました。叔母が1人でやっていたのだから仕方なかったのでしょう。
叔父さんにそのお話をしたら、叔父さんが教科書を始める以前は、文房具は蔵前、お菓子類は金糸町の問屋まで、仕入れに行っていたというのです。お願いして、文房具と菓子類の問屋さんを案内してもらいました。午後の暇な時間、叔母さんにお店番をお願いし、自転車で問屋廻りをはじめました。
今まで配達してもらって仕入れると、8割以下のものはありませんでした。しかし、問屋街で仕入れると5割、中には5割以下のものもありました。それ以上に嬉しかったのは、子供の欲しがりそうな新製品がたくさんあったことです。当然、利益率は目に見えて向上、目新しい新製品は子供の好奇心を誘って、売上もどんどん増えていきました。利益が多くなると、おまけをしてあげられるので、子供たちは余計に喜んでくれます。
任されて、責任を持たされてやるのは面白い。体を動かし、お客様の求めるものを積極的に与えていけば、喜んでいただきながら利益が増えることを知りました。
第4話 日本一の技術者になろう
市川で叔母の文房具屋をお手伝いしていたときは、毎日がとても楽しかったです。商品を仕入れるため、蔵前や錦 糸町まで自転車をこいでくのは大変でしたが、商売が面白くて仕方ありませんでした。
そんなある日、叔母さんが改めて話しがあるというのです。藤代にいる養母から手紙があり私をどこか堅いところに、勤めさてほしいということでした。「叔父さんのお兄さんが、逓信省の電話局関係に勤めている。その人にお願いしてみるから、電話局の試験を受けてみないか」と、叔母さんは切り出しました。私は「ようやく、商売の面白さが分かってきたところだから、このまま文房具屋で働かせてもらいたい」とお願いしました。
しかし、私の養母に最初から無理を言ってお願いしたのだから、試験を受けなければ藤代に帰ってもらうというので、昭和11年の6月、東京・赤坂の三会堂(アメリカ大使館前)で逓信省の試験を受けることになりました。紹介してくれた人が良かったのか、まもなく東京逓信局の東京工事局というところから、合格通知が届きました。6月22日から、私に赤坂電話局へ出勤せよとのことです。私は前の晩から「お腹が痛い」と言って、食事もしないで寝ておりました。翌朝早く、叔母がまくらもとにやって来ました。「こうちゃん仮病を使っても駄目。今日出勤しないなら、すぐに藤代へ帰すから」と釘をさされ、私はしぶしぶ赤坂電話局へと出勤しました。腹が痛いと言った手前、晩と朝の食事は、まったく口にしていません。赤坂電話局の近くにあった弁当屋で、2食分まとめて食べたのも、今となっては懐かしい思い出です。
こうして、いやいやながら入社した逓信省でしたが、新しい生活に順応することの早い私は、浅草の菊屋橋にあった富川さん(市川の叔父さんのお兄さん。その当時は浅草電話局の空気調整関係の責任者)のお宅に同居させていただき、赤坂電話局の自動電話交換機の技術者として育っていきました。
給料は日給月給制。1日が85銭、1カ月で25円50銭でしたが、養母からお小遣いをもらわないで、独立した生活ができる日を迎え、生活にも張りが生まれてきました。私が逓信省に入社して、赤坂電話局に技工見習として配属されたころ、担当する機械室は200坪くらいの広さがありました。一般のお客様を収容するA型自 動交換機と、逓信局の構内自動交換機とで、それぞれ機械室の半分くらいを占めていました。その外に別室があって、逓信局の手動交換台を保守するのが、私の担当業務です。
逓信局工事課から派遣された最高責任者は、赤坂局試験掛担当で、技師の吉川武雄と言いました。そこから試験、機械、電力、線路などの部署に分かれています。私の所属した機械関係を統率する人を取締役といい、星野七次さんがその任についていました。星野さんは人格円満、極めて温厚な方で、私たち見習にも、慈父のように接してくださいました。機械室内の自動交換機や、手動交換台のすべてに精通し、何を聞いても即座に教えて下さいます。私は、何と素晴らしい人なのだろう。おそらく、星野さんこそが日本一の技術者で、神様みたいな人だと思いました。
私は、これからの人生で目標にするのは星野さん、この人から吸収できるものはすべてを吸収し、自動電話交換の技術者として、日本一になろうとひそかに決意しました。
それからの私は、その目標に向かってひたすら努力しました。10代のころ、星野さんのような人に出会えたことが、私を自動電話交換技術者として、大きく育ててくれたのだと思います。

第5話 私を支え続けた言葉
昭和11年、逓信省工事局に入り、赤坂電話局で勤務しましたが、身分は技工見習です。本採用になるためには、上司の推薦により、銀座電話局にあった「技術養成所」を終了しなければなりません。毎日の仕事を人一倍努力した甲斐あって、同じ時期に採用された中で最年少だった私が、わずか1年で銀座の養成所に入ることできました。
養成所に入所した同期生は50人。4カ月に及ぶ、厳しい訓練が始まりました。勉強は朝8時から夕方の5時まで。昼休みの1時間除き、びっしり8時間もありましたが給料をいただきながら勉強できるので、とても楽しい毎日でした。電気の基本から、磁石式交換機、共電式交換機、A型自動交換機と、吸取紙が水を吸収するように、知識をどんどん身に付けていきました。
技術養成所の所長が、藤井技官でした。その講和の中で、とても熱い口調で語ってくれ、私の心に残ったものがあります。「現在、我が国の電話には、たくさんの問題がある。申し込みを集めて、抽選で当たった人にだけ取付けている。こんなことでは駄目だ。申し込んだらすぐに取付けてあげられるようにすること。これが第一の目標。第二の目標は、九州の片田舎に私の両親が住んでいるが、何か用事があって市外電話を申し込んでもつな がらない。これでは電話の役目は果せない。ダイヤルしたらすぐつながり、毎晩両親にあいさつしてから寝られる電話、これが我々が目標とする理想の電話だ。 君達の時代に必ずこれらをやらなければいけない」これは昭和12年の話です。
ご存じのように現在のNTTは、当時目標とし、理想としたものをはるかに凌駕しています。こうして社会人の一歩を踏み出しました。当時は六本木の近くにある霞町に下宿していました「技術養成所」を終了し、本採用になったときの月給が34円50銭。食堂でお腹一杯食べて、1カ月の食事代が約11円、ポプリンのワイシャツを誂えて1円50銭でしたから、給料で十分な生活ができました。
その頃、勤務先の赤坂電話局には、優秀な先輩がたくさんいらっしゃいました。ほとんどの人が、夜間の学校に通って、己を高める努力を重ねていたのです。私の下宿のそばに、新潟出身の山内次郎という先輩が住んでいました。山内先輩は独学で、専門学校検定試験に合格するほど大変な努力家でした。山内先輩は私を可愛がってくれ、よく誘われて彼の下宿に行きました。みかんや乾燥芋などをご馳走になりながら、夜更けまで指導を受けたものです。
また、 数学、物理、電気など吸取紙のように知識を求めていた私にとって、山内先輩から借りた本は、宝物のような価値がありました。お借りした本の表紙を開けると、その裏に必ず「己に打ち克たざるもの、あに、人に打ち克たざらんや」と記されていました。少年期の私にとって、これは強烈に印象に残った言葉です。独学を続けていた山内先輩も、時には眠気に誘われ、時には遊びたいときもあったことでしょう。そのとき、表紙の裏の文字をにらみながら、すべての誘惑に打ち克って勉学に励んだのだと思いました。
山内先輩は、やがて不治の病といわれた結核におかされました。江戸川病院に入院し、血を吐きながら、私の手を握ったまま死んでいきました。私の心に「己に打ち克たざるもの、あに、人に打ち克たざらんや」を強く刻みつけたままで……。
私は今もこの先輩が残してくれた言葉を座右の銘としています。生死をさまよった軍隊生活の中でも、長男の回復の見込みがない病気との闘いの中でも、妻の4回にわたる回復手術のときも、長い年月をかけた臨床実験のときも、いつも「己に打ち克てずに、人に克てるか」という言葉が、私の人生を大きく支えてきたといっても過言ではありません。
これからの人生も、平坦ではないでしょう。たとえどんな苦難の道であろうとも、この言葉を支えに歩み続けたいと思います。

第6話 戦争と養母の笑顔
技術養成所を終了し本採用になってから、勤務地の赤坂電話局で星野取締役のもと、熱心にA型自動交換機の勉強を続けました。受講できる講習会は積極的に参加。機械部門では星野取締役に次ぎ何でもできると評判になり、逓信省の交換台が故障したとき、交換台の責任者からご指名をいただけるほど、技術者としての腕を認めてもらえるようになりました。昭和15年、満20才になって本籍地の茨城県で徴兵検査を受けました。甲種合格になった私は、翌年3月1日から水戸市外の長岡村にできた、航空通信教育隊への入隊が決まりました。養母の手許から離れて、5年の歳月が流れていました。一日も早く養母から離れて、独立したいと思いつめていた頃より多少は成長したのでしょう。支那事変も始まっていることだし、一度軍隊にはいったら、どこに出征するかわからない。恐らく生命の保証はできないだろう。このまま死んだら、育ててくれた養母に何もしてやれずに終わってしまう。せめて入隊前の1年だけでも、茨城から赤坂まで通って養母と一緒に暮らそう。そして親孝行の真似事でもしてから軍隊に入りたい。そう思った私は、下宿をひきはらい茨城県藤代の生家に帰って、東京の電話局まで勤することにしました。当時の常磐線は電化される前で、機関車が煙をはいて走っていた時代です。藤代から上野まで汽車、上野から新橋までが国電、新橋から赤坂までは徒歩の毎日でした。通勤時間は2時間半、帰りも同じでしたが、夕食を食べずに何かつくって待っててくれている。養母との食事は楽しいものでした。休日には実家の農業を養母と一緒に手伝い、家族団らんで一緒に食べたおむすびの味は、いまでも忘れられません。何より嬉しかったのは、養母の笑顔が毎日見られることでした。気がつくと、それが私の生き甲斐になっていました。いよいよ現役兵として入隊する前日になりました。鎮守の森、熊野神社で礼拝し、見送りに来た町内の人たちにあいさつしてから、水戸へと向かいました。長兄が入隊まで見送ってくれることになり、2人で指定された長岡村の農家に一泊しました。20年間生きてきて兄とは初めての、そして最後の旅行でした。私がビルマまで転進したころ、兄は海軍に召集され、フィリッピンのミンダナオ島で戦死したのです。長岡の農家で、兄とくみ交わした盃が、別れの盃になりました。私の入隊した航空通信教育隊は、満州新京にあった航空通信第一連帯が原隊でした。満州では教育をやるには寒すぎるのと、航空部隊の増大にあわせて、航空通信兵を大量に育成する必要もあり、水戸市外の長岡村に新設されました。兵舎は新しいものの、部隊長、中隊長、教育担当の教官や古参兵まで、満州から選ば れ水戸に移った人たちばかり。いわゆる関東軍の気合は相当のものでした。連隊長は宮村信幸大佐、第5中隊長が濱金右エ門大尉、内務班長は、三木忠敬軍曹で班長と古参兵が4名、初年兵は20名という編成でした。無事に過ぎたのは最初の二日だけ。三日目の午後、演習の集合に遅れたものが1人いて、その夜、一日の終了を確認する点呼で、班長から全員がビンタをうけました。その夜からは、ビンタのない日が物足りないくらい、日を追うごとに、頬の内側がかかとの皮より厚くなっていくのです。そうなるとビンタなんか、大したことではなくなるのですから、鍛えるということは、すごいものだなと思いました。教練と送受信に明け暮れ、号調音の練習、食事当番、銃の手入れから洗濯まで、走り廻る忙しさの中、私たちは日増しにたくましくなっていきました。



第7話 養母の愛に泣く
入隊した水戸の航空通信教育隊で、当初は6カ月間の訓練を受ける予定でした。
しかし、戦火は風雲急をつげ、1カ月ほど予定を繰り上げて、満州に渡ることが決まりました。訓練の総仕上げとして7月半ば、柏市で演習を行うことになりました。演習が終わって満州に移れば、養母とは二度と逢うことができないだろう。柏に行く途中、実家のある藤代駅を通る。藤代駅には父が勤めている。父を通して、何とか満州にいくことを養母に伝え面会に来てもらい。最後の別れがしたいと思いました。早速、養母に手紙を書きました。「柏市の演習に行く途中です。演習が終わると今月末には満州に出発します。満州に行けば生命の保証はないので、もう一度逢ってお別れがしたい」と書き、白いハンカチに石と一緒に包みました。
演習に向かう日、見慣れた藤代駅を通過しました。構内を通るとき、便所の窓から用意した手紙を落したのです。それを見つけて、父の歩みよる姿が目に入りました。自分一人でこんなことをして申し訳ないと思いましたが、そのときは養母にもう一度逢って、お礼を言いたいという気持の方が強かったのです。柏の演習から帰った最初の日曜日、面会の案内がありました。面会所には養母が待っていました。養母の話によると、藤代駅と隣の佐貫駅の間にある、小貝川の堤防が切れて水が入り、常磐線が一部不通になっているということでした。そのため、養母は朝早くわざわざ牛久駅まで歩いて、水戸にやって来てくれたのです。
面会所は誰が聞いているか分かりませんから、満州にいくと話せませんが、お互いにこれが最後かもしれないという思いの中の面会でした。
時間が来て、別れのときがきました。その時、養母が「どんなことがあってもお金は役に立つと思うから、千人針の中にぬいつけてもっていきなさい」と、隠すようにして紙包みを渡してくれました。面会が終わり、内務班に帰ってそっと紙包みをあけてみると、10円札が3枚入っていました。その頃は大金です。とりあえず煙草ケースの中にかくしました。そのまま自分の手箱の中にケースを入れ、多忙な行事に飛び廻っていました。
夜の点呼前、少しひまな時間を利用して、母からもらったお金を千人針にぬいつけておこうと思い、手箱の中から煙草ケースを出してあけてみたら、30円がものの見事になくなっていたのです。何ということだろう。これから一緒に満州に行き、生死を共にしようという戦友の中に、養母の愛の結晶を盗み取るような人がいるなんて……。純粋な戦友愛 を期待していた私にとって大きなショックでした。それまで、ひたむきに暮して来た毎日の軍隊生活が、こんな形で裏切られるとは……。軍隊生活なんかどうなってもいい。俺ももっと悪人になって、太く長く生きてやろうと思いました。
次の日の午後、また私に面会人が来たという知らせを受けました。養母は昨日来たのだし、入営前夜に宿泊した長岡村の農家の方がよく面会に来てくれていたので、その人たちが来てくれたのかなと思いました。
ところが、面会所に行くと、昨日と同じように養母が待っていました。どうしてまた来てくれたのか問いかけると、「昨夜、家に帰って床についたら、お前が夢の中に現れ、枕もとに座ったまま養母の顔をじっと見ていた」と言う のです。夢の中で養母が「どうしたの」と膝をゆすぶって聞くと、「戦地に行っても何も困ることはないけど、病気になったら困る」と言い、あと何を聞いても返事をしなかったそうです。
義母は「何か変わったことはなかったの」と聞きました。私は養母からもらったお金を、昨夜のうちに盗まれてしまった話をしました。黙って聞いていた養母は「そんなことでよかった」と言いました。その夢を見てから眠れなくなったので、満州で寒い思いをしないよう編みかけていたセーターを一晩かかって仕上げ、私に手渡してくれました。
そして、「お前が盗まれたことを表にだせば、これから戦地にいく戦友に傷がつく。盗まれたことは忘れてこれをもっていきなさい」と、財布からまた30円のお札を渡されたのです。

第8話 冬の早い満州に上陸
窓を完全に閉めきってカーテンをおろし、全く外が見えない汽車に乗せられ、水戸駅を出発しました。水害にあった常磐線の復旧工事が進み、藤代と佐貫の間が徐行運転できるようになった直後、8月上旬のことでした。
汽車がどこを通っているのか、そして、どこまで行くのか、誰にも分かりません。徐行して小貝川の鉄橋を渡る音から、いま、故郷の藤代駅周辺を走っているのだと想像し、我が家の方へ心の中で手を合わせ故郷に別れを告げました。汽車は夜通し走り続け、次の日の夕方、広島に着きました。広島で一泊したのち、翌日は宇品港で船に乗せられ、ただちに出港です波の荒い玄界灘をこえ て、8月17日、大連港へ上陸しました。いよいよ、私たちは満州の地に第一歩をしるしたのです。
そこから更に、満州鉄道に乗り新京まで参りました。さすがに満州は広い。それが第一印象でした。リンゴ畑があれば果てしなく続き、赤い夕陽は地平線の彼方に沈みます。その雄大な展望は、軍歌戦支の「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下」を、実感させるものでした。
新京の原隊では、私たち15年兵の到着をまって部隊を編成。私は航空通信第1連隊、第5中隊に編入され、ただちに北満のソ満国境に近い、寧安へ転進いたしました。
いよいよここから、本格的な初年兵教育の始まりです。寧安には航空通信第2連隊が常駐しており、私たちが所属した航空通信第1連隊の第5中隊は、その兵舎の一部を借りて駐在することになりました。まだ暑かった水戸を出発してから、9月になっていました。
北満州の冬は早い。8月でも下旬になると寒くなります。毎朝、かけ声を大きくしてやっていた乾布まさつも、真剣にやらなければ肌をつく寒気がおそいます。全員に防寒服が支給され、演習場だった安立山での登山訓練にも、一段と熱が入りました。夜間のイトウ、ロジョホコウ、ハーモニカの号調音による送信や受信も、夜毎にその早さを増し、私たち初年兵は日増しにたくましくなっていきます。
初年兵の教育担当の教官に、時下少尉がいました。志願兵上りの九州出身者で、非常に訓話の上手な方でした。兵の心をとらえていらっしゃり、少尉の崇拝する武田信玄の話を、よく聞かせていただきました。「お前達もやがては第一線に立つ日がくるだろう。第一線で何より必要なものは、日頃の心構えだ。どんなことがおきても、平然としていなければならない。武田信玄は諸事に臨んで、"動かざること山の如く、静かなること林の如く、ときこと(早きこと)風の如し"と言っている。お前達も第一線で、いつどんなときも、この心構えだけは忘れないように…」
やがて私も、ビルマで分隊長として第一線の兵を指揮する立場になったとき、時下少尉に教えられた戦時の心構えが、どれだけ役に立ったことか…。時下少尉も私の人生にとって、忘れられない先生の一人です。
第9話 軍曹の盾になって死のう
満州に渡り、9月1日には一等兵へ昇進、一つ星から二つ星になりました。同じ日にラシャの防寒服を支給され、 一段と兵士らしくなっていきます。往復ビンタを毎日くらっても平気。何も感じません。ほほの内側は、かかとの皮の様に厚くなり、いくら殴られてもビクともしないのです。人間を鍛えるということは全くすごいもの。これでないと第一線で戦う兵士になれないのかもしれません。
ペーチカに火の入った九月下旬、突除として「南下せよ」との命令が下りました。関東軍の精鋭の大半は、南下をはじめると古参兵が話してくれました。完全軍装し、私物から典令に至るまですべて背のうに詰め、防寒服の外とうまで加えると、ゆうに50kgはあったでしょう。
とりあえず、新京の本体まで復帰することが決まりました。赤い夕陽の北満州寧安から南下をはじめ、新京にたどり着いたのが9月27日でした。新京駅から連隊までは5kmほどありましたが、いきなりこれを駆け足で走らされたのです。50kgの装具に38式歩兵銃の完全軍装のまま…。
目もくらみそうな中、何とか無事兵舎へ到着しました。あとで分かったことですが、実はこのかけ足が南下する兵と、残留する兵の選別だったのです。ただちに出陣式を行い、9月29日新京を発ち、大連をめざしました。
昭和16年10月1日、大連港を出航。行き先は全く分らない。多分、南の方だろうと想像するだけで、誰も分かりませんでした。着ているのは支給されたラシャの防寒服のままです。10月7日、台湾高雄港に入港。当時の台湾の防衛体制は、内地とまったく同じに扱われていたので、上陸前の船中で防寒服から下着 まで蒸気で消毒されました。消毒を終え、ぽっぽと湯気があがる防寒服を着て、上官の許可がなければボタン一つ外せない軍律の中、高雄から屏東市まで徒歩行軍です。
屏東では小学校を宿舎にしました。その頃の陸軍は横暴で、学校を休校させて軍の宿舎にしていました。屏東での訓練はすべて対暑訓練。明けても暮れても演習です。とくに防毒マスクをつけたままの演習が多く、やがて展開される南方作戦に備え、暑さに耐え得る兵を育てようとしていました。
そんなある日、突然防毒マスクの呼吸弁の検査がありました。その時、何と私の呼吸弁がついていなかったのです。訓練担当の将校(当時中尉)は、私を将校室に連れ込み、殴る蹴るの暴行が始まりました。しかし、呼吸弁は全く知らないうちに取り外されたもので、私自身に思い当たることがありません。「私は知りません」で押し通すと。顔が変形するほど殴らてれ、分隊へ戻りました。
その時の分隊長が、今も島根県松江市で元気に農業をやっておられる野津利男軍曹でした。野津軍曹は私をしっかり胸に抱き、「百万人がお前を疑っても、私はお前のことを信じるよ」と言ってくれたのです。私は第一線でこの人が危険にさらされたとき、盾になって死のうと思いました。
第10話 軍隊で学んだ人間の姿
昭和16年10月、台湾に上陸してからの耐暑訓練は、1カ月以上に及びました。来る日も来る日も、暑さに体を慣らすための演習が続き、先月まで満州にいて防寒服が必要だった私たちの体を、極限まで追い詰めていきます。実際にこのあと行った南方の方が、楽だったと 感じられるほど、凄まじいものでした。
訓練がようやく終わりに差し掛かり、サイゴンへ向かって出航する直前、私が慕っていた野津利夫軍曹が赤痢にかかってしまい、入院することになりました。 分隊は一時的に解散されられ兵隊はそれぞれ、ほかの部隊に預けられていきました。
私の新しい上官は奥村という軍曹でしたが、こいつがとんでもないワルだったのです。とにかくひどい男で、初年兵にも5円くらいのお小遣いが支給されるのですが、奥村軍曹はそれを渡さず、女郎屋にもっていって、自分で全部使ってしまうのです。私も骨っぽい人間ですから、こんなやつについていけないと思い、次第に逆らうようになりました。当番を命じられても無視するなど、意識的に反発を繰り返していました。
11月15日に台湾を離れ、新たに所属した分隊は、20日にサイゴンへ上陸しました。当時のサイゴンは都会で活気もあり、満州の大平原とはまったく違います。確かに暑いところでしたが、台湾よりも乾いた風が印象的でした。ここから、本格的に航空通信網を形成する任務が始まりました。飛行機が飛ぶ時は、事前に連絡をとって通信で指示をしなければなりません。航空通信網があるから、飛行機を飛ばせるのです。私が受け持っていたのは、飛行場と飛行場の通信を結びつけるもので、何時ごろに到着するから給油の準備をしろ、爆弾を用意しろといった命令系統でした。各飛行場を渡り歩き、ときには航空部隊について、転々としながらタイ国境をめざしました。任務を遂行しながらも、分隊長への反発は続いていました。
のちに奥村軍曹も預かっている私を煙たく感じ、結局、私は本隊への帰還を命じられることになります。その頃、上等兵の選抜が行われていました。本来なら、上官に逆らって帰還させられた私を選ぶはずがありません。
しかし、ちょうどその時、私が慕っていた野津軍曹が退院し、本隊に復帰していたのです。野津軍曹は、「あの男はそんなやつじゃない。逆らうのは、よほど分隊長が悪やつなんだ」と言ってくれ、私は上等兵になることができました。入隊から1年で上等兵になったのは、中隊の中で私ひとりだけ。とても名誉なことでした。
その後も、兵長、伍長、軍曹と階級は上がっていきましたが、どんな仕事もこなす私が常に一番最初でした。兵長になってからは、異例の若さで部下もできました。軍隊とはいっても、一般社会と同じです。良い人もいれば、とんでもなく悪いやつもいる。でも、最終的には心の問題なのです。思われていれば、思います。尽くしてやれば、尽くしてくれます。それが人間の姿なのです。
心の大切さは、電電公社に復帰してから、そして治療器の普及を進めるうえでも、大いに生かされたと思います。
第11話 太平洋戦争開戦
サイゴンに上陸し、本格的な航空通信の任務について間もなく、大きな事件がありました。忘れもしない、昭和16年12月8日の出来事です。
その夜、師団司令部にいた私は、一通の軍機電報を受け取りました。軍の重要な作戦命令である軍機電報は、われわれ通信兵にとって、一度でも受け取れば勲章がもらえるくらい凄いものでした。実際に、この夜の任務で勲八等をもらうのですが何と一晩中、軍機電報を受け続けたのです。しかも、私は本格的な航空通信を始めたばかりの初年兵。本当に無我夢中でした。
はじめはどこと通信しているのか分かりませんでしたが、次第に事の重大さに気付かされました。通信をしていた相手は、まさにこれから、マレー半島へ上陸しようとしている部隊だったのです。敵の攻撃に手こずり、崖っぷちでずっとこらえながら、機をみて夜襲をかけ上陸を果たしました。こうして私は、自分の任務の中で、太平洋戦争が始まったことを知りました。
いよいよアメリカを相手に戦うんだ…。関東軍の精鋭を集めて南進を始めたとき、ある程度予想できたとはいえ、とんでもないことになったと思いました。
あの夜上陸した部隊が先鞭をつけ、マレー半島で怒涛の快進撃が始まります。日本軍は連戦連勝を続け、いよいよ私は戦火の中に深く身をおくことになりました。
昭和17年、戦地で迎える初めてのお正月は、戦況が悪化したその後と比べれば、まだ余裕がありました。みんなで餅つきをやって、少しはお正月気分も味わえました。
進撃を続ける最前線に身をおき、来る日も来る日も戦いが繰り返されます。その年の3月には、いよいよビルマに入りました。結局、戦争が終わるまで、私は3年間もビルマを転々とすることになります。
空からは爆弾が降り注ぎ、敵が来たら防空壕に身を沈めます。部隊のみんなで一緒に入ることはありません。もし、そこが被害を受けたら全滅してしまうからです。穴を掘って一人ずつ入り、爆撃機が通り過ぎたら顔を出す。顔が見えれば、あいつは生きていたと分かります。逆に、もし別の穴に入っていたら、死んでいたということもありました。
敵は人間だけではありません。ジャングルに入ると、夜は野犬に襲われる恐怖があります。真ん中に火を炊いて、そこに全員足を向け輪になって寝るのです。暗闇で野犬の目が、ランランと光っているのも見えます。交代で銃を持ち、番をしながら眠りについていました。こうした極限の状態におかれながらも、勝ち続けていたころはまだ良かったのです。ビルマでの壮絶な生き死にをかけた戦いは、まだ始まったばかりでした。
第12話 若き兵長と12人の部下
太平洋戦争の開戦からしばらくの間、日本軍は破竹の快進撃を続けていました。ビルマを越えてマンダレーまで前進したころ、私たちの部隊は「第一航空通信連隊」と改称。勝ち戦を続けていた当時は、戦力の増強とともに航空通信の重要性が増し、現地で兵隊を教育をしな がら、新しい部隊がつくられていきました。
そんなとき、私はデング熱にかかってしまいました。南方の風土病の一つですが、いま振り返ると、これが私の運命を大きく左右したように思います。デング熱になると、42度ぐらいの高熱が毎日続きます。南方の風土病としてはマラリアも有名ですが、デング熱の方が、一気に高熱が出て苦しいのです。結局、私は1カ月ほど、ラングーンの病院に入院していました。
ようやく高熱がおさまり部隊に戻ると、「第一航空通信連隊」には籍がないと言われました。新しくできた「第三航空通信連隊」に転属されたということでした。部隊にしてみれば、病気になるような兵隊は、外に出してしまえということなのです。しかも、新しくできた部隊に対しては上官も冷淡ですから、すぐにビルマ北方の最前線へと送り込まれました。もし、そのまま「第一航空通信連隊」に籍があれば、比較的安全なビルマ南方にいることができました。
しかし、この転属によって、終戦まで常にビルマの危険な地域を転々とすることになったのです。もう一つ、「第三航空通信連隊」に転属されたことにより、階級にも違いがあったと思います。新しい部隊ということもあり、人材は十分に揃っていませんでした。私のように何でもこなしていく人間は、とても重宝されました。
その結果、私は最終的に軍曹まで務めることになります。私のような立場で入隊したものは、せいぜい兵長くらいまで。それが伍長、軍曹まで昇格したのですから異例のことでした。しかも、一選抜といって、どの階級も最短の期間で昇進していったのです。
そうした経緯もあり、昭和18年の3月、まず私は兵長になりました。加えて12人の部下を持つ分隊の長として、指揮をとることになりました。そして終戦にいたるまで、この12人と行動を共にすることになります。
私の生涯の中で、忘れることができない12人の仲間たちです。この12人を生かすも殺すも私にかかっています。中途半端な責任ではありません。兵長で分隊長を務めることも異例でした。しかも20歳そこそこの若者で、部下には私より年長でベテランの兵隊もいました。しかし、それでも私を慕い、ついてきてくれました。本当に12人の部下とは心が通い合いました。
想えば、想われる。尽くせば、尽くされるのです。戦地であっても、人間同士であることには変わりありません。
私には一つの誇りがあります。この12人をひとりも殺しませんでした。とんでもない負け戦だと悟ったときから、絶対に命を守ってやろうと決意しました。たとえ、私の身が犠牲になったとしても……。ひとりも殺さなかったことで、私には何一つ悔いがありません。
それが私のヒューマニズムの原点になっています。

第13話 心の通い合った12人
太分隊を任され12人の部下を持った私は、もっとも若かったこともあり、一番危険なビルマ北部の最前線へと送り込まれました。われわれは飛行場を結ぶ通信を受け持っていましたが、自動車に無線機を乗せて移動します。有線の通信網もありましたが、爆撃を受けてどこかが切れてしまえば使えなくなるので、どんな状況でも使える無線は重宝され、他の部隊からも頼られることが多くなりました。厳しい戦況、重みを増す任務の中で、12人の部下たちとのチームワークは、生き延びるために何よりも欠かせないものでした。
12人の部下にはいろんな人間がいました。まだ10代の初年兵もいました。私は分隊長ですから、彼らの教育も仕事の一つです。私自身が受けた教育は壮絶なものでした。当時の軍隊教育は、とにかく殴って体で覚えさせるというやり方です。日本、満州、台湾での訓練を通して殴られた頬の裏側は、足のかかとのように硬くなっていました。しかし、逆の立場になったとき、私は決して初年兵を殴りませんでした。そんなことをやっても、意味がないと分かっていたからです。
初年兵を呼び出し、「ふらふらするな。歯を食いしばれ」と叫んでから、スリッパで私の手のひらを思いっきりたたきます。そうするともの凄い音がして、傍で聞いている古参兵は、「新しい分隊長は気合いが入っている」と喜ぶのです。殴られると思っていた初年兵が、涙を流して喜んでいたのを忘れることができません。
部下は殴りませんでしたが、上官に逆らうことはよくありました。あるとき、女好きの中隊長が前線で危険にさらされている私たちを迎えにこないことがありました。命からがら中隊本部に戻り、「遊びに使う車はあっても、兵隊を助ける車はないのか」と叫び、中隊長に刀を振り回して暴れました。止めにはいった みんなに、羽交い絞めにされましたが、それほど血の気は多く筋の通らぬことは許しませんでした。
上に逆らい、下はかわいがる。そんな姿をみているから、 部下が慕ってくれるのです。年下だけではありません。私よりはるかに年上の部下だっていました。
一度は下士官になっていたのに、博打をやって降格させられた、いわば札付きです。当然、私のように若い上官に使われるのは面白くありません。前線に行くと勝手に髪を伸ばして、「軍属さん」と呼ばれているのです。それでも、何ひとつ注意しませんでした。むしろ、中隊から上官が来るときは知らせて、叱責されないよう気遣ったほどです。好きなことをやらして、責任は私が負えばいいと思っていました。
こんなふうに接していると当然、年上の部下も若い分隊長はどこか違うと気付きます。こうやって、みんなと心を通わせていったのです。
しかし、このベテランの兵隊は、いざ爆撃が始まったとなると、もっとも的確な判断を下し部隊を守ってくれました。経験が豊富なだけに、極限の状況で素晴らしい力を発揮します。
要するに個性なのです。いろんな人間がいる。それを認めて個性を生かし合うことが、組織にとって最も大切なのです。そして、お互いに心が通い合っているから、あの状況を切り抜け、みんな生き延びることができたのです。
心が通っているのは前線に行けば分かります。戦いの最前線では、弾が飛んでくるのは前方だけではありません。極限では後ろにいる味方から飛んでくることだってあるのです。戦争とは、それほど凄まじいものなのです。
第14話 この戦争は全部嘘っぱちだ
昭和18年8月、分隊を任されていた私は、伍長へ昇格しました。兵長になってから、わずか5カ月後、一選抜といって、これも最短期間での昇格です。振り返ってみると、日本軍が優勢で戦況が良かったのは、この伍長になったころまででした。
ビルマにも、良いところがたくさんありました。私がいたタボイという飛行場の近くは、とくに果物が豊富です。例えば、ドリアン。あの独特の臭いは苦手な人も多いでしょう。しかし、それは食べる前のことで、あんなに美味しいものはありません。村に入っていくと、ドリアンがたわわに実っていて、あの臭いがあたり一面にたち込めているのです。最初は私も嫌でしたが、食べ始めるとやみつきになり、ついにはあの臭いがすると食欲がわいてくるほどでした。ザボンもたくさんありました。木に大きな実が成り、ネバネバした繊維の中に、ドロップのような種が入っています。すごく硬いのですが、これを茹でると本当に美味しく食べれるのです。果物が豊富にあったことで、私たちの命が救われたのだと思います。
戦況が悪化してくると、必要な物資の補給すらままなりません。食料さえ届かないのですから、自分らで見つけて食べるしか生き延びる方法はなかったのです。そもそも、日本軍は物資の補給に対する意識が希薄でした。全部、現地で調達すればいいと考えていたのです。日本にモノがなかったといえばそれまでですが、常に前線で命の危険にさらされながら、生き延びるための食料すら、自分たちで確保しなければならない。そんな過酷な状況へと、追い込まれていきました。まだ日本が快進撃を続け、勝っていたときは良かったのです。ビルマの人たちも、日本人に対して協力的でした。
しかし、ひとたび戦況が悪化してしまえば、 よその国の兵隊さんです。軍票はもちろんのこと、お金が通用しなくなります。われわれ航空通信は、兵隊の中でも質が良く、いわばジェントルマンでした。しかし、歩兵部隊などの中には、暴行したり、収奪したりと、悪事をはたらく兵隊がいたのも事実です。
現地では、日本軍に対して恨みを持っていた人たちもたくさんいました。昭和19年になると、さらに戦況は厳しさを増してきます。それまで見ていたのは、外国人の死体でした。しかしこのころから、おびただしい数の日本兵が死ぬようになってきます。その死臭というのは、凄まじいものです。まして、南方の熱いところですから、想像を絶するものでした。中隊本部から将校が、変更された暗号集を前線へ届けにくるのですが、死臭に耐えられず、夜なのに泊まらず帰っていってしまうほどです。
われわれは常に、通信用の無線機を持っていました。周波数域が広いため、日本の時事通信だけでなく、世界中のラジオ放送を受信でき、おのずといろんな情報が入ってきます。目の前にある悲惨極まる現実。にもかかわらず日本の放送では、「勝った、勝った」と伝えていたのです。
何が勝っただ。目の前で起こっていることは何なんだ。人を騙して、全部嘘っぱちじゃないか…
。死臭がたち込め、壮絶さをましていく戦場。それとは裏腹に、ラジオは嘘を垂れ流し続けていました。そのうち私は、負け戦だと確信するようになりました。部下には、将来のある若者たちもいます。ここで死んだら、犬死にだと思いました。
だから私は、絶対に一人も殺すまいと誓ったのです。戦争は生命力と精神力の限界がためされます。絶対に勝つんだとか、心を支える強いものがなければ、生き残ることはできません。嘘っぱちの負け戦で、「一人も殺してなるものか」という怒り。それが私の心を支えたのです。
このように壮絶な状況に追い込まれながら、インパール作戦が決行されました。飛行機の全くこない、最前線の飛行場。毎日、爆撃にあいながら通信を確保し、食料もなく骨と皮だけになりながら、すべての命を守り抜いたのです。
第15話 玉砕分隊と呼ばれて
昭和19年2月、インパール作戦への出撃命令が下ります。当時、英軍の占領下にあったインドへの侵攻は、のちに無謀極まりない作戦と非難されました。事実、私が目にしたのは、あまりに壮絶で地獄のような光景でした。食料や武器の補給すら考えず、インパールをめざしていったのですから……。命令を受けたとき、私はビルマ南方のタボイにいました。すぐにラングーンの中隊に引き戻され出陣式。その時、われわれは「玉砕分隊」と呼ばれました。
つまり、あんなところへ行けば、無事に帰ってくると誰も思っていなかったのです。私が最も若い分隊長でしたから、危険な場所への出撃を命じられたのでしょう。どうせ死ぬのだからと、前の日は酒やご馳走がふるまわれました。翌日、中隊全員の見送りを受け、無線機を積んだ、いすゞの6輪駆動車に乗り込みました。めざすはインパール目前のインダウ飛行場です。ビルマ中部のマンダレーまでは道路も整備され、日本軍の勢力下にあったため順調に進みました。問題はそこから先です。インドとビルマの国境付近は山岳地帯。あるときはジャングル、あるときは水田、さらには線路の上など、道なき道を北へ北へと進みます。敵に見つからぬよう昼間はジャングルに隠れ、夜にスモールライトでゆっくりと前進。
こうして何とかインダウ飛行場へ到着しました。当時、ここが日本軍にとって最前線の飛行場でしたとはいえ、竹やぶに滑走路1本の粗末なもの。飛行場に通信所を開設せよという命令でしたが、こんなとこで爆撃を受けたらおしまいです。私の判断で少し離れた崖に横穴を掘り、そこへ通信所をつくりました。
命令違反といえばそれまでですが、何百キロ離れたとこから、最前線の様子が分かる訳ないのです。すべて私が責任をとればいい、部下の命を預かっているんだという強い使命感がありました。飛行場に着いてしばらくの間、日本軍がインパールへ向かっているときはまだ良かったのです。
しかし、すぐに戦況は悪化してきます。まず敵の偵察機が、 ゆっくりと頭上を飛び回るようになりました。つまり、制空圏を敵に奪われてしまったのです。ゆっくり観察して、じゅうたん爆撃が始まります。一つの町が、一度の攻撃で吹っ飛んでしまうくらい、嵐のように爆弾がふってきました。
インパールを目前にしていた歩兵師団も、雨季に入って動きが悪くなり、釘付けになっていました。この作戦はまったく補給のことを考えていませんから、戦利品がなくなると食うものもありません。仕方なく撤退をはじめますが、餓死者が累々と横たわり、私たちの目の前には地獄のような光景が広がりだしました。 彼らの飯ごうの中には、いぬげのはえたご飯しかなく、下痢するのを分かって洗いながら食べているのです。
あれほど、むごいものを私は見たことがありません。それでも無線機に入ってくる日本のラジオは、勝った勝ったと伝えていました。士気に関わるので、部下には伝えませんでしたが、嘘っぱちの負け戦という確信は強くなっていました。
日に日に激しくなる爆撃にさらされながら、激しい雨でついにインダウ飛行場は水没してしまいます。まったく機能しなくなり、私たちにも撤退命令がでました。前進するときはいいのです。悲惨なのは、負け戦で逃げているときなのです。これからが、玉砕分隊と言われた私たちの正念場でした。
第16話 南へ命からがらの撤退
昭和19年の終わり頃、中隊本部からの撤退命令を受けて、われわれ分隊は、水没したビルマ北部のインダウ飛行場を後にしました。玉砕分隊と呼ばれ、インパール作戦の発動から半年以上にわたって、最前線で爆撃にさらされてきました。
しかし、これからが本当の生死をかけた撤退です。敵に制空権を奪われたビルマ北部を抜け、まだ日本の勢力下にあったマンダレーをめざしました。とはいえ、昼間はまったく動くことができません。下の方でこそこそ動いているものが見つかれば、上空にいる敵の飛行機に爆撃されます。無線機を載せた、いすゞの6輪トラックをジャングルに隠し、われわれはじっと息をひそめていました。そして暗闇が覆うころ、ひっそりと南に向かって進みはじめます。
毎日が命がけです。食料の補給もありません。負けている軍隊のお金は、もちろん通用しません。マンゴウやドリアンを採ってきたり、あとはジャングルにいる動物を食べて飢えをしのぎました。部下の一人に、銃の達人がいて夕方になると、キジや野鶏が寝ぐらに戻ってきます。その一瞬だけが仕留めるチャンスです。変なところに当たると逃げてしまうのですが、彼は一発で頭に命中させます。そうやって獲物を獲り、みんなで分けて食料を確保していました。
暗闇の中、撤退するときは、私より年上だった2人の召集兵が存分に力を発揮しました。前線では勝手に髪を伸ばしたり、好き放題にふるまっていた彼らですが、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた経験があります。今日はここまで絶対に下がるんだと決めたら、彼らは必ず実行してくれました。
道なき道を南へと向かいました。トラックに乗り、線路の上を走ることもありましたが、枕木の間に車輪が落ちてしまえば、それっきり動かなくなります。ですから、両脇から枕木の間に一本ずつ木をまたがせて、その上を走っていくのです。彼らの判断力と生きるための知恵がなければ、恐らく無事に戻ることはできなかったでしょう。
このように極限の状況におかれたとき、部下との信頼関係、そして一人ひとりの個性が大きな力となります。射撃が得意なもの、極限で生きる術を知ってるもの…。どんな人間にも、その能力を生かせる場面が必ずあるということを、紙一重の判断が生死を分ける戦場で学んだように思います。
はじめのころ、昼間しか上空にいなかった飛行機が、夜中にトラックで走っているときも爆撃してくるようになりました。撤退している歩兵は、栄養失調で 立っているのが精一杯。追い打ちをかけるように、悪性のマラリアも蔓延していました。
ついに餓死、病死してしまった無数の兵隊が、いたるところに横たわっています。あたりには死臭がむんむんと立ち込め、この地獄のような光景を正視できる人はいないでしょう。そんな中、マンダレーをめざしていた私たちは、服もすべて売り払ってしまい、下はふんどし、着ているものは雨合羽だけというみすぼらしい格好でした。それでも何とか、部下全員の命を守り通すことができました。
ラングーンの中隊本部に戻ると、驚きの声に包まれました。あそこまで行けば、生きていられないはずの玉砕分隊が、一人も欠けることなく帰ってきたのですから。
第17話 プノンペンで終戦を迎える
ラングーンの中隊本部へ戻った私たちの分隊は、年が明け昭和20年の2月に、タイのバンコクへと向かうことになります。敵軍はビルマ北部から一気に南下を進めており、ラングーンでも頻繁に爆撃を受けるようになっていました。その頃は一人壕といって、爆撃の際に逃げ込む防空壕も、たくさんの人間が一箇所に入ることはありませんでした。分散した方が、被害を最小限に食い止められるからです。2つ3つ先の壕から、兵隊が出てこないのでおかしいと思ったら、破片が当たって死んでいたということもありました。戦場での生きると死ぬは、常に紙一重なのです。
こうして日本軍の飛行場は、ほとんど機能しなくなり、われわれ航空通信の仕事も撤退を余儀なくされます。ビルマに比べると、バンコクは差し迫った緊張感がありませんでした。到着してすぐ、分隊は仏領インドシナのナトラン飛行場へと向かい、ここで航空通信を受け持つことになります。すでに前年の12月、軍曹になっていた私は現地で勲八等瑞寶章を受けることになりました。これは太平洋戦争開戦のとき、マレー半島に上陸する部隊との通信で、軍機電報を扱った功績によるものでした。
昭和20年の8月、私たち分隊に新たな命令が下りました。もう一度、ビルマに戻れという内容でした。その頃、死ぬことが怖いなんて、私自身は思っていませんでした。しかし、以前より戦況が悪化したビルマに戻ればどうなるかは、容易に想像できました。
ビルマに向かって出発した分隊は転戦の途中、カンボジアのプノンペンにある飛行場へ立ち寄りました。8月15日のことです。仲間に挨拶しようと思っていたら、これから重大な放送があるので聞いていけと言われました。そこで、あの玉音放送を聞くことになります。昭和16年3月、水戸の教育隊に入ってから4年以上が経っていました。
日本での厳しい訓練、厳しい冬の満州から一転し、耐暑訓練で訪れた台湾、サイゴンへ上陸したあと、タイ、仏領インドシナを経て、生死の境をさ迷い続けたビルマ――。
戦争が終わりました。
呆然と立ち尽くすもの、泣きながら悔しがるもの、虚脱感に襲われその場にへたれこんでしまうもの。終戦を聞いた兵隊の反応はさまざまでした。私は通信で、いかにこの戦争が嘘っぱちであるかを知っていました。目の前で多くの兵隊が死に、敗走を続けているにも関わらず、日本のラジオ放送は勝った、勝ったと伝えていたのですから。
部下には一言もいわなかったものの、負け戦だと確信していました。だから、戦争が早く終わるのに越したことはないと思ってました。しかし、いざ終戦の知らせを聞くと、胸には複雑な感情が渦を巻いていました。
自分は死んでもいい、ただ若い部下だけは犬死にさせたくない。私を支え続けた、必ず守ってやるという使命だけは、果たすことができました。一人も殺さなかった、その安堵感を一番よく覚えています。翌日、バンコクに向かい中隊本部と合流しました。寄らば大樹の陰ではありませんが、戦争が終わったあとのことを考えると、小さな分隊で行動するのは、何かと不都合があると考えたからです。この咄嗟の判断は、のちに正しかったと分かりました。
戦争が終わると私たちは捕虜となり、タイで投降者生活を送ることになります。
第18話 5年ぶりに踏んだ日本の土
戦争が終わり、捕虜としての生活は1年近く続きました。捕虜とはいっても、身の安全だけは保証されています。命のやりとりしていた戦争が終わったのですから、捕虜生活の辛さなど、それ以前に比べるたら天国みたいなものでした。加えて、ビルマを占領したのはイギリス軍です。捕虜に対しても紳士的な態度で接してくれます。
南方ですから気候も穏やかでした。寒いシベリアの抑留者などと比べたら、まだ我々の捕虜生活は恵まれていたと思います。終戦とともに中隊本部へ戻ったので、1000人以上もの日本兵と一緒に行動することになりました。毎日の生活は、戦争の時と同じく分隊ごとに管理されます。常に拘束され身が不自由という訳ではなく、捕虜は一カ所に集められ、規律を保って自活せよというのが基本方針です。
そのとき私は軍曹でしたから、英軍からの指示を受けて、それをみんなに伝えるのが主な仕事でした。指示の内容は、使役に関するものが多く、どこで、こんな仕事をしなさいという命令に応じていました。最も多かったのは、便所掘りです。1000人以上も の捕虜が生活するのですから、大変な数が必要になります。英軍は衛生管理がしっかりしていて、まず4~5メートルくらいの穴を掘らせ、用を足すごとに上から砂で埋めていきました。しかし、こうした使役のおかげで、あれだけ多くの人間が狭いところに押し込まれていたにもかかわらず、悪い病気が流行ったりすることもありませんでした。
こうした捕虜生活を続けるうちに、私はある異変に気がつきました。命をかけた極限の日々から、終戦を境に目的のない暮らしに変わったことで、多くの兵隊は生きるための張り合いを失っていると感じたのです。とくに血気盛んな若者たちほど深刻でした。このままではいけない。何かやらせないと、みんなおかしくなってしまうのではないかと、心配するようになりました。
ある日、いつものように英軍からの指示を受けていたとき、私は演劇用の舞台を作らせて欲しいとお願いしてみました。捕虜の実情を訴え、みんなに芝居をやらせたいと言いました。英軍は意外にもあっさり、この申し出を認めてくれました。
それからはもう、みんなが参加して、芝居にのめりこんでいきました。清水の次郎長もあれば、国定忠治もあり。分隊ごとに趣向をこらした出し物を考えます。何しろ1000人以上もいる大所帯です。ありとあらゆる職業を持った人たちの集まりでしたから、舞台の小道具を作るのも、衣装を作るのも本格的でした。中には、本当に役者をしていたという男もいたくらいです。みんな自分の特技を活かして嬉々としながら、月に2回開く舞台をめざしました。生活がみるみる変わっていったのをよく覚えています。
そんな捕虜生活が半年くらい経った頃から、いよいよ日本への復員が始まりました。一度に全員が帰るという訳にはいかなので分隊ごとに、どの船に乗れという命令が下ります。私が乗ることになった復員船は、航空母艦の「葛城」でした。飛行機の格納庫だったところに兵隊を入れるので、1万人くらい収容できる巨大な船です。昭和21年6月7日、タイのバンコクを出航。空母ですから足も速く、20日には浦賀に着きました。
思えば、昭和16年に広島の宇品港を後にしてから、5年ぶりに踏む日本の土でした。真っ先に考えたのは、やはり藤代に残した家族のことでした。翌日、分隊を解散し、それぞれが故郷をめざします。一人も殺さず、無事に日本に連れて帰ったという満足感を胸に抱きながら、一人ひとりに別れを告げました。途中、破壊し尽くされた東京を通ります。終戦から1年近く経っているのに、まだ瓦礫の山が残る首都を見て、何でこんな馬鹿げた戦争をしたのかと怒りがこみ上げてきました。上野に着いてから、家族が待っているはずの藤代をめざしました。
第19話 復員の翌日に職場へ復帰
復員船で浦賀に着き、藤代の自宅に戻った翌日、入隊する前に働いていた、赤坂の電話局へ出勤しました。復員してから、いつ仕事に復帰しようと、その人の自由です。しかし、翌日すぐに出勤するというのは、かなり珍しかったでしょう。体はピンピンしていたし、何より一刻も早く働きたい気持ちで一杯でした。
あたり一面は焼け野原でしたが、赤坂の電話局はそのまま残っていました。当時も通信は重要施設であり、まわりに燃えてしまう建物があれば強制的に撤去していたので、建物だけは無事でした。瓦礫の残る東京はとても貧しく、食料を手に入れることすら困難な状況です。戦争のとき、航空通信を一緒にやっていた男が、1人だけ東京に住んでいました。出勤したその日に戦友を訪ねてみると、空襲を免れたようで、家だけは残っていました。
叔父さんの家族が焼け出されたらしく、家にはたくさんの人がいました。わざわざ出してもらったご飯が、ぬか団子でした。ぬかをメリケン粉でつなぎ、なんとか団子の形にして、みそ汁に入れて食べるのです。私は実家で白米を食べていたので、喉に詰まって飲み込むことができませんでした。ぬか団子を食べるしかないほど、東京には食料がなかったのです。その点、田舎は恵まれていました。少なくとも食うものだけはあります。
戦友を不憫に思い、のちに仕事と住むところを世話してやり、茨城に来いと誘いました。食料のある田舎でなければ、生活していけなかったのです。当時はまだ祖母が元気で、家で飼う鶏を管理していました。戦争から帰ってきた私は、ひどく痩せ細っていたので、こっそり卵をくれたり、ご飯をたくさん食わせてもらったのを覚えています。
海軍に召集された兄がフィリピンで戦死し、戦争から戻ってきたのは私と弟の2人でした。その分、祖母は孫のことを気にかけてくれ、食べることに関しては、とくに気をつかってもらいました。こんな事情から、片道2時間以上もかけて、藤代から赤坂の電話局へ毎日通うことになりました。
1時間に1本くらいしかない、すし詰めの汽車で上野まで行き、そこから電車に乗り換えて、新橋から赤坂までは20分以上かけて歩きました。仕事を終えて帰るのも大変なことでした。しかし、ものは考えようです。 東京と藤代を毎日往復するのですから、何かできることはないか考えてみました。
まず私は立派な革のカバンを買いました。そして、毎日2升の米を入れて東京に行きました。お米を欲しがっている人はたくさんいます。逆に田舎では石鹸がなくて困っていました。だから東京でお米と交換して、石鹸を藤代に持って帰ったのです。
その頃、米2升で石鹸4個が手に入ったのですが、田舎では貴重なため、米4升に換えてもらえました。つまり、朝あった米2升が、帰ってくると4升になる訳です。これを繰り返していくと、毎日2升ずつ米が増えていきます。食糧難の時代を物語るエピソードですが、ちょっと知恵を絞って、みんなが困っていることを解決してあげるというのは、のちの仕事でも活かされたように思います。
仕事に復帰してしばらくすると、赤坂の電話局は、戦争に行く前と全く変わっていることに気がつきました。優秀な人間は戦地に行っていたため、とにかく誰でもいいからと雇われた連中が、好き勝手なことをやっていたのです。機械室の中が寒いからといって、脚立を燃やして焚き火をしたり、全くひどい状況でした。軍隊から戻ってきたばかりで、私も血気盛んでしたから、乱れた風紀を許することできませんでした。今だったら大変ですが、一人ずつ屋上に呼んで、根性を叩きなおしていました。
戦争にいかないで、やりたい放題だった連中は、あっという間に規律正しくなっていきます。皮肉なことに、しばらくすると私は社員教育をする教官に任命されました。若くして人を教えるという経験が、私にとって大きな財産になっていくのです。
第20話 財産となった教育の仕事
復員して赤坂の電話局に勤め出した私に、転機が訪れます。東京も着実に復興へと歩み始めた昭和24年、新しく開設された訓練所の教官に任命されました。
戦時中に多くの人材が軍隊にとられ、誰でもいいからと採用された連中は、基礎的な教育すら受けていません。電話局としては、彼らを再教育したうえで、復興により増大する通信の需要に備えなければなりませんでした。入隊する前、私には4年しか勤務経験がありませんでした。しかし軍隊で6年間、実務をこなしています。
ちょうどその頃、かつての上司だった井田さんという人が、赤坂電話局の上層部に出世していました。以前から、私の仕事ぶりを評価してくれていた井田さんは、「軍隊とあわせたら、お前はもう十年選手じゃないか」と言ってくれ、教官の一人に私を指名したのです。とはいえ、この人事は異例の抜擢でした。50人くらいの生徒を受け持つのですが、大半は私より年上です。電話局だけでの経験なら、私よりも長い生徒がいました。十分に準備を整え、これなら十分に話せるという材料を用意して授業にのぞみました。ところが、最後の方は話すことがなくなってしまうのです。はじめのうちは、授業中に立ち往生することもありました。
それでも、人前に立って話し続けていると、だんだん教えるコツがつかめてきます。生徒の心が、少しずつ読めるようになってきたのです。こちらの話を聞いてないときは、いくら堅い話をしても無駄です。柔らかい話に変えて、私の方に気持ちを集中させます。例えば、ビルマでの戦争体験を話すと、生徒は目の色を変えて聞いてくれました。気持ちを引き寄せたら、ぱっと中身を切り替えて、教えるべきことを話し始めます。こうしていくと、生徒の中に知識が残っていくのです。学校の授業なら教えるだけでも構いません。しかし、これは部内の教育ですから、局員が仕事をできるようにならないと、何の意味もありません。ときには授業の間ずっと、心ここにあらずという生徒もいました。
呼び出して個人的に話してみると、「食料の買出しにいかないといけない。家族で食べるものがない」と言うのです。私は生徒に、藤代の農家を紹介し、買出しの段取りまで都合をつけてやりました。そんなことも、教育の中では大切になってくるのです。
教官は約2年ほど続けましたが、その間にもう一つ貴重な経験をさせてもらいました。三重県の鈴鹿に大きな訓練学校をつくることになり、出張して開設前の準備に携わりました。私が担当したのは、授業に必要な教材をつくることです。例えば、電気はなぜおこるのか、直流と交流はどう違うのか、分かりやすく教えるために、玩具のような教材を作るのです。これも最初は上司にやらされたことですが、この仕事に関わったおかげで、「自分の頭で考えて作る」という作業が習慣として身につきました。いろんなテーマを与えられるうちに、考えること、そして形にしていくことが、楽しくなってきました。いま振り返ると、上司にも恵まれ上手に育ててもらったのだと思います。
若くして教育に携わったことは、その後の人生をも変える、私の大きな財産になりました。自分の頭で考えて、モノを作っていくのは、いわゆる発明的な発想です。のちに交流磁気治療器を開発するとき、この習慣がものすごく活かされました。また、生徒の前で話すという経験は、治療器を広めていく健康講座などに活かされています。どうしたら、みんなの心に私の言葉が届くのか。それは訓練所での授業が土台になっています。
交流磁気治療器の開発と普及の礎になったのが、実はあの当時の教育体験なのです。


第21話 結婚そして東京での暮らし
戦後の復興は着々と進み、首都東京は瓦礫の山に覆われた焼け野原から、すっかり姿を変えていました。サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本が国際社会に復帰した昭和26年、私は結婚し自分の家を構えることになります。
女房との馴れ初めは、通勤で藤代から東京へ向かう汽車の中でした。彼女はその当時、洋裁学校へ通っており、いつも座って編み物をしていました。おとなしそうな女性で気になっていましたが、ある人を通じて、もらってくれないかという話がありました。恋愛でも、見合いでもない結婚でしたが、お互いの実家から近い藤代に建てた家で、養母と3人の生活が始まりました。
ところが、一家の主となった私には、悩みのタネがありました。養母が女房のことを気に入らないのです。最初から招かれざる客のような扱いでしたが、ある日突然、2人を別れさせようと、養母が家出してしまいます。「産みの親なら別としても、私には育てられた恩がある。だから養母を選ぶ。俺と一緒にいたければ、我慢しなさい」と、女房に言い聞かせました。なんとか 2人の仲がうまくいくよう、私もできることはやりました。しかし、養母が家に戻ってからも、まったくうまくいきません。結局は養母に、お前はどちらを選ぶのかと決断を迫られました。のちに3人でまた一緒に暮らすのですが、しばらくお互いに距離を置いた方がいいと思い、女房と2人で東京へ出ることにしました。
現在の本社からも近い、 早稲田に借りた6畳一間の古いアパートで、東京生活がスタートしました。家財道具はすべて藤代にあり、持ってこれないので、部屋にはミシンくらいしかありませんでした。あの頃は2人ともよく働きました。女房は上野の百貨店にコネがあり、売り場の担当者から要望を聞き、婦人服や子供服を作っていました。仕事の合間には、 私の背広やコートも作ってくれました。たった一つの家財道具だったミシンのおかげで、食べること、住むことに関しては、女房の稼ぎで賄うことができたのです。
私の仕事も順調でした。結婚した翌年、日本電電公社法が施行されました。公社になり、職場の雰囲気は一変します。それまではみんな役人的で、いくら仕事をしても給料や昇給にほとんど差はありませんでした。この頃から毎年のように、私は発明考案の表彰を受けていました。例えば当時、電話番号の案内業務に出ない社員がいました。それを監視するため、上司は常に職場を巡回していたのですが、電話に出るとそこにランプがつく装置をつくったのです。こうすれば、監視は一人で済みます。当たり前の仕事ですが、当時は職場を改良しようという発想はありませんでした。こうした発明が評価され、電通記念日のたびに表彰されていたのです。
2人の生活も軌道に乗り、1年ほど経つと私たちは東京で家を買うことにしました。今の自宅からも近い目白に、かつて徳川様の屋敷跡があり、敷地を6つに分けて建売住宅を売り出していたのです。
ところが、これはとんでもない曰くつきの物件でした。私たちが住んでから間もなく、突然、司法省の役人がやって来て、家中に差し押さえの赤紙を貼っていきました。私には何のことかさっぱり分かりません。役人は「あなたは善意の被害者」だと言うのです。真相はこういうことでした。私を含めて敷地にあった6軒の家は、不動産業者が勝手に建てたもので、土地はまったく別の人が所有していたのです。法律では 業者を訴えることはできず、建物を所有し土地を占拠している私たちが、裁判にかけられました。知らなくて買ったのだから、あなたたちも確かに被害者である。安く分けるので、土地の代金を払えということでした。
この裁判を通して、私は多くのことを学びました。善良である、知らなかった騙されたと言っても、結局は知識のあるヤツにかなわないのです。
何だって知識を持っていることは大切だと痛感させられました。

第22話 長男と長女の誕生5人の家族
東京に出て暮らし始めた私たち夫婦に、待望の子供ができました。結婚から2年目、昭和28年のことです。しばらくの間、藤代の養母とは離れて暮らしていましたが、初めての孫ができるのを機に、東京へ出てこないかと誘いました。気に入らなかった女房との間に、少し距離をおいたことで、逆にお互いの溝は小さくなっていました。何より、孫が生まれるのは養母にとっても大きな喜びです。結婚以来、私を悩ませていた問題が一つ解決しました。
4月に逓信病院で産まれたのは、4000gを超える大きな男の子でした。これで我が家は4人の家族となり、平凡ながら幸せな毎日が始まりました。その当時、私は竹橋にあった東京電気通信局で、自動電話交換機のオーバーホールを担当していました。戦時中に全くメンテナンスをしないで使っていたため、東京中の電話網は危機的な状況が続いていました。修復作業の企画責任者として、私は電話局を蘇らせていく大きな使命を担い、仕事も家庭も順風満帆でした。
ところが、すくすくと育っていたはずの長男が突然の高熱で脳出血をおこし、幸せは一朝にして崩れ去ります。わずか生後37日目のことでした。40日間に及ぶ入院で、長男は一命をとりとめたものの、左半身の麻痺と、言語・知能障害が残りました。自宅に戻ってからも毎日、数回のひきつけを起こし、女房は付きっ切りで長男の面倒をみなければなりませんでした。
この出来事が、私と家族にどれほど大きな影響を及ぼしたのかは、これまで著書や講演などで何度もお話してきた通りです。子供のために、少しでも良い治療 法を求めて病院を転々としながら、ミシンで洋裁の仕事を続けた女房には、本当に頭の下がる思いでした。
小さな長男の将来に、計り知れないほど大きな不安を感じている彼女が、もう一人子供を育てることに躊躇するのは無理もないことでした。しかし、このまま子供の暗い面だけ見ているのは、私たち夫婦にとって良いことではないと思いました。明るい面を知るためには、我が家に健康な子供が必要だったのです。長男は病気なのだから、心配することは何もありません。もう一人、子供を育ててみようと、ためらう女房を説得しました。
昭和30年に生まれた長女の弘美も、4000gを超える大きな赤ちゃんでした。この子がすくすくと元気に育ってくれたことは、私たち家族の希望になりました。母親はお兄ちゃんの面倒をみるので手一杯でしたから、弘美に不自由をかけた面はあったでしょう。しかし、兄の病気は十分に心得ていたので、自分がこの家を支えるんだという強い責任感を持って育ったと思います。
のちに大学へ入ったあと、弘美は奨学金までもらってドイツへ留学し、向こうでも優秀な成績を残しました。小さな頃から、自分でやると決めたら、必ず実現する根性を持った子でした。養母を迎え、子供が生まれて5人になった私の家族ですが、いつも病気を抱えた長男が中心でした。
私はこの家の主として、人の2倍も、3倍も働こうと思いました。この子を何とかするためにはお金がいる。将来を考えたら、お金を残しておく必要がある。
家族に何ひとつ不自由のない暮らしをさせてやろうと、固く心に誓ったのです。



第23話 失敗の経験から何を学ぶ
藤代から養母を迎え、長男と長女が誕生し5人で暮らす我が家でしたが、最初から不法占拠で裁判にかけられるなど、因縁つきの土地であったため、私としては長く住み続けたくありませんでした。長男の病気でいろいろな病院へ通っていたので、少しでも便利な場所へ引越し、女房の負担を減らしてやりたいという気持もありました。
そんなとき、以前の裁判でゴタゴタしているうち懇意になった不動産屋から、雑司ケ谷に良い物件があると紹介されました。ほぼ四角い理想的な土地で、山手線の内側にある利便性を考えると、値段も破格と言っていい掘り出し物でした。不動産屋はすぐにでも手付金を打とうと急がしましたが、私はもう少し調べてからにしたいと、その場で返事はしませんでした。何しろ当時住んでいたのは、不動産業者が他人の土地に建てて、勝手に売り出した家です。のちに土地を追加購入させられ、裁判にかけられている間は、十分な知識と情報がなかったこと、騙されるのがいかに惨めかということを嫌というほど味わっていました。
だからどうしても、自分の目で確かめておきたかったのです。売り出している土地に足を運んでみると、私は呆気にとられました。更地で売り出しているはずなのに、奥の方に小さな家が一軒建っていたのです。調べてみると、真相はこういうことでした。売主は印刷業を営んでいた年配の夫婦で、老後に備えて都内に数軒のアパートを持っていました。おそらくこの土地も、新しいアパートを建てようとして購入したようですが、どうしても以前からいた借家の住人が出ていかない。そこで業を煮やして、更地と言い張って売り払ってしまおうという魂胆だったのです。
しかし私は、そこで何も見なかったことにしようと思いました。家が建っているのは知らないふりをして、土地を売り出している印刷業の夫婦のもとへ契約に行ったのです。当時の値段で、土地代は100万円でした。もちろん、私たち家族にとっては大きな買い物です。細かい点まで交渉しながら契約書をつくりました。そして最後に判を押すというとき、私はゆっくりと口を開きました。「ところで、今あそこに建っている家はどうなるのでしょうか?」土地の売主は少し慌てたようですが、決して取り乱すことなく、「あれは、登記の日までに壊しますよ」と答えました。私は「ならば契約書の中にそう書いてください」と要求したうえで、手付金を40万円ほど払いました。さらに、もし登記までに取り壊しができず契約を破棄することになれば、違約金として40万円を払うことも契約書に入れました。
仮に土地が手に入らなくても、40万円の手付金は倍に増えることになります。こんな契約では売主は大損になってしまうので、建っている家は良い条件を出して撤去したのだと思います。結局は、またしても曰くつきの物件だったのですが、今度はしっかりと情報を集め、知恵を絞って交渉し、非常に安い値段で土地を手に入れることができました。
もちろんこれは、裁判にかけられた中で、自分なりにいろんな勉強をした経験が生かされたからです。経験はすべて、一つひとつ活かしていかなければなりません。仮にそれが失敗であったとしても、経験を積んだというのは自分自身の宝物なのです。
経験から何を学ぶか、そしてどう活かしていくかに、その人の真価が問われているのです。


第24話 労働組合を押さえ込め
私は自宅に部下を呼んで、みんなと酒を飲み、一緒に騒ぐのが大好きでした。雑司が谷の新居に移ってからも来客は頻繁で、これは電電公社を辞めるまで続きました。
正月はとくに盛大で、かつて一緒に働いた部署ごとに部屋を分け、梯子しながら飲んでいたほどです。家族はみんな嫌がり、のちに糖尿病を患ったのも酒が原因でした。しかし、裸の人間同士が語り合い、部下に慕われたことが私の仕事にプラスになったことも事実です。
昭和35年、当時は東京のはずれで場末と言われた玉川分局に、機械課長として着任することになります。私には一つの使命が与えられていました。その頃の分局は労働組合の力が強すぎたため、業務にも大きな支障が出ていました。その混乱を沈静化するのが、私に課せられた仕事だったのです。それまで調整課に籍をおき、自動交換機のオーバーホールで責任者を務めていた私には、たくさんの部下がいました。中には熱心な組合員もいましたが、その対応を評価していた上司が、私にならできると見込んで送り出したのです。
玉川分局では、組合活動を押さえつけるため新しい上司が乗り込んでくると、身構えていたのかもしれません。どんな奴がきたのかと、最初は随分と警戒もされていました。しかし実際には、私の仕事ぶりを見て、拍子抜けした組合員が多かったことでしょう。何しろ私のやり方は、組合の要求を徹底的に聞くことから始めたからです。よくよく聞いてみると、当時の彼らが要求していたのは、ほとんど職場の環境改善でした。本来は管理者がやるべきことであるのに、それができていないから不満が募り、組合活動はだんだんと過激になっていきます。もともとの身近な原因を一つずつ取り除いていけば、活動も沈静化し、職場は正常に戻っていくはずです。かつて、オーバーホールの責任者をしていたときもそうでした。部下が職場で要望していたことを、一つずつかなえていったのです。
要はお金さえあれば、実現できることばかりです。お金は頭一つで、知恵さえ絞れば、もらってくることは可能です。以前と違って、今度は予算も十分にありました。何しろ私のバックには、公社のお偉いさんが付いていて、組合を沈静化させるという特別の任務を背負っていたのですから。分局につくと、すぐに私は要望の実現に着手していきました。
ひどく汚ないため、リラックスできない休憩室を、きれいな最新の設備に入れ替えたり、組合の要求をかりて次々と職場の改善に取り組みました。不思議なもので、人間というのは住む世界が快適になると、心のあり方も変わっていくのです。殺伐としていた場末の分局は、徐々に変わっていきました。何しろ予算を持ってきて、組合の要求がどんどん通るのですから、先鋭化して職場を混乱させることは無くなってしまうのです。あとは組合から選ばれる委員のうち、私と意思が通じている職員で過半数を占めてしまえば解決します。
こうして実績をあげた私は、その後も組合の活動が盛んな、混乱している電話局へ送り込まれるようになりました。同僚は大変な仕事だと気遣ってくれましたが、予算も十分に与えられ、次々と職場を改善できるのですから、私は楽しくて仕方ないと思っていました。
組合を押さえ込むといっても、まずは相手の話を聞くことから始めなければなりません。言ってることが理にかなっているなら、それを実現するために努力すればいいのです。成果を積み重ねれば、相手の考えは変わります。
職員は思想や信条よりも、どちらが強いのか、どちらに付けば得なのかを見ているだけなのです。そこを見抜くことができたのが、この仕事から得た一つの財産だったと思います。



第25話 我が家に自動車がやってきた
昭和30年代の後半、敗戦から立ち直った日本は高度経済成長の真っ只中にありました。
当時、多くの大衆が求 めたテレビや冷蔵庫、洗濯機といった憧れの製品を、我が家でも一つずつ買い揃えていくことになります。それぞれ最初に買ったときの思い出というのはありますが、他の家でもそうだったように、やはり初めて自家用車を購入にしたときのことは、強く印象に残っています。
我が家に自動車がやってきたのは、昭和37年のことでした。まだ日産のブルーバードが出たばかりの頃で、私が免許をとった3日後に買いました。そのころ電電公社の職員で、マイカーを持っていたのは、私以外に誰もいませんでした。しかし、そんな早い時期に自動車を買わなければならなかったのには、理由がありました。いつも病院に通い続けていた長男は、乗り物が大好きでした。タクシーに乗って病院へ行くと、いつまでも乗っていたいものだから、シートに岩のようにしがみついて、なかなか降りようとしません。タクシーはお客さんが降りないと商売にならないので、いつも大変です。そのうち諦めるまでお金は払うから、しばらく乗せてやってくれと言ったこともありました。
また、ある時は勝手に家を抜け出した上、よその家にあがりこんでしまったため通報されてしまいました。家のものが見つけ出した時はパトカーの中でした。
ふだんから大好きな自動車、その上いつも「うーうー」とあこがれていた車に乗れたものですから本人は有頂天でこれも断固として降りようとしない・・・困りはてたものです。そんな我が子をみるうちに、無理してでも自動車を買ってやろうと決心しました。
それからは、よく長男を車に乗せて、羽田の飛行場へ出掛けました。今とは違って、東京の外れにある埋め立て地は、とても寂れた場所でした。もちろん車に 乗って行くのも楽しいのですが、長男はそこで、飛行機を見るのが大好きでした。私が休みの日になると、日が暮れるまで二人で大空を舞う飛行機を眺めていたものでした。
自家用車についてはもう一つ、今思うと笑い話のようですが、忘れられない思い出話があります。買ってまもなくのこと、大枚をはたいて買った車だから事故などあってはいけないと早速成田山までお払いに行きました。当時の道路事情は筆舌に尽くしがたく、6歳の長女などはでこぼこがある度に天井まではずみ、到着することには車酔いとあいまってげんなりしてしまうほどでした。その道中のことです。私も今では年のせいか大分性格がまるくなりましたが、当時は誰かに抜かれると抜き返さずには済まないほどの負けず嫌い、最初の遠出にもかかわらず抜かれた車を追いかけて接触、ナンバープレイトがポーンと何十メートルも飛んでしまいました。お払いの旅が最初の事故になってしまったのです。同上していた部下がナンバープレイトを追いかけて走るは、私は私で相手に平謝りと散々でしたが、幸い誰にもケガがなく相手の許しも得て、これはこれで一つの厄払いかと最後には笑いあったものです。
最近「ものより思い出」という広告がありましたが、思い出すと「もの」に「物語」があった古きよき時代でもありました。

第26話 子供が育つ環境を作ってあげるのが親の務め
雑司が谷に新居を建ててから、しばらくして2階の部屋を貸すことにしました。
公社の給料は公務員に準じたもの で、家は建てたものの、家計のやり繰りにゆとりはありませんでした。1階は家族だけのスペースでしたが、玄関や廊下の一部は共用になっていたので、一つ屋根の下に暮らすアットホームな雰囲気です。
小さい頃の弘美は、2階へ行って、芸達者なお姉さんに歌を習ったりしていました。のちに俳優になった役者のたまごもいたり、いろんな人が我が家に住んでくれました。
もちろん、大家になって大変なこともありました。今のアパート経営とは違い、当時は契約といっても、いい加減なものです。保証人などもいませんから、あとから詐欺師と分かった人や、朝鮮半島からの密航者まで、住んでいたこともありました。
一番困ったのは、2回もあった自殺未遂です。一度は睡眠薬でしたが、ガスで死のうとされたときは大変でした。第一発見者が機転をきかせて、窓を開けたからよかったものの、もし先に電気をつけていたら……。おそらく、我が家は吹き飛ばされていたでしょう。今では笑い話になってしまいますが、良いことも悪いことも、すべてはいろんな人がいたからこそ、振り返ると楽しい思い出になるのです。
とても賑やかな家になりましたが、それは2階の住人だけではありません。我が家には、次第に甥や姪もたくさん住むようになりました。
当時は田舎から東京へ出てくるとき、まず最初に親戚の家を頼りにしていたものです。就職や進学で東京にやって来た、女房の兄弟の子供たちを、最も多いときで3人ほど面倒みていました。とはいえ、1階の家族のスペースが、広い訳ではありません。うちの家族が4人で一部屋、もう一部屋に、養母と姪などが4人で寝ていました。現代の住宅事情から考えると、想像もできないほど窮屈ですが、たくさん子供たちがいるのは、賑やかで楽しいものです。
私は弘美のために、こうした環境を作ってあげたいと考えていました。長男の病気があったため、弘美は事実上、一人っ子のようなものでした。そのことを、いつも不憫に思っていました。私自身も子供の頃は、養子に出された家で、一人っ子として育てられています。溺愛してくれた養父が、早く亡くなったこともあって、兄弟のいない寂しさはよく分かっていました。それでも、私には救いがありました。育った環境は一人っ子でも、実際には血を分けた兄弟がたくさんいたからです。その点、甥や姪たちが、我が家を頼って上京してくれたのは、ありがたいことでした。
弘美のために兄弟をつくってあげられなくても、一緒に暮らしていれば、兄弟のように育てることができるからです。私も甥や姪には、我が子と同じように接しました。実際に弘美も、いとこたちを兄弟のように慕い、今でも心の支えになっているはずです。
私の子育ては、どちらかというと自由放任で、子供のやりたいようにさせるというものでした。勉強をしろと言ったこともないですし、厳しく叱ることもありませんでした。




第27話 伊豆の別荘にまつわる思い出と醒めない夢の続き
メキシコオリンピックのあった昭和43年、私は伊豆に別荘を購入しました。渋谷でホテルや、電電公社の社員寮などを経営していた方に紹介され、一目みて気に入りました。
雑司が谷の自宅は、都心にあって便利とはいえ、日々働くための住環境でした。将来は伊豆に移って、長男と一緒に余生を過ごせたらどんなに素晴らしいだろう…。そんな夢を抱きながら、私は別荘を持つことにしました。
伊東の駅から、車で5分くらいの高台にあった別荘は、相模湾を見下ろし、遠くは伊豆大島までを見渡すことができました。1階には家族専用の部屋と食堂など、2階にも3部屋あり眼下に絶景が広がる、とても大きな家でした。温泉の源泉をホースで引き込み、お風呂にも使うなど、そのまま民宿として経営できるほどの設備でした。事実、私はここで何か商売をできないだろうかと、真面目に考えたこともありました。
別荘には、常に20組ほどの布団が用意されていました。ここに公社の部下などを呼んで、飲んで食って大騒ぎをするのです。いま思えば、そこまでして部下と付き合う上司は、私以外に一人もいなかったでしょう。ただ、家族には随分と迷惑をかけたと思います。料理を作るのはもちろん、これだけ大きな別荘ですか ら、掃除をするだけでも大変です。布団を干すだけでも、20組以上あるのです。女房は今でも、あの別荘には良い思い出がないと嘆くことがあります。
部下と飲んで、本音の付き合いをしたことは、仕事を進めるうえでも有意義なものでした。ただ、自分が好きでないことは、一生懸命にできないものです。 私が根っからの親分肌であること、そして心底、お酒を飲んで騒ぐことが好きだったから、別荘に20組も布団が必要だったのです。お銚子では間に合わないので、私はいつも一升瓶を膝に抱え、際限なく酒を飲み続けていました。飲みながら食うのも、ものすごい量です。とくに魚が大好きで、暴飲暴食や不摂生なら、すべてやり尽くしたという自信があります。
そんな生活が体に良い訳はなく、糖尿病になったのも無理ないことです。結婚した頃に60キロだった体重は、10数年で20キロ以上も増えていました。最も太っていたときで83キロ、空腹時の血糖値は400を超えていたのです。別荘を買ったころは、女房の食事療法のおかげもあって、少し落ち着いていましたが、それでも酒をやめて、おとなしくなったりはしませんでした。
このようによく遊ばせてもらった別荘でしたが、いま思うと本当に楽しかったのは、持つまでの間だったと思います。手に入れようと努力しているときが、最も輝いている時間でした。実際に買ってしまうと、あっけないというか、現実に起こる面倒なことの方が気になってしまうのです。夢をかなえてしまったあとに残るもの。夢の向こうに何があるのかを、私に教えてくれたのも、この別荘だったような気がします。
のちに伊豆の別荘は、売りに出すことになりました。交流磁気治療器を開発するために、まとまった資金が必要だったからです。古い夢は、次の新しい夢のために役立ってくれました。
しかし今度の夢は、決して醒めることがありません。どんなに努力し、障害を乗り越えても、飽きることなく夢中になれるものでした。それはきっと、交流磁気治療器を世に送り出し、各家庭に普及することが、私に与えられた、大きな使命だと感じていたからでしょう。
80歳を超えた今もなお、新しい交流磁気治療器の開発に取り組んでいます。こうして挑戦を続けながら、世のため、人のために役立てることを、私は心から誇りに思っています。
第28話 奨学生に選ばれ長女の弘美が西ドイツへ留学
オイルショックに日本中が揺れた昭和49年、長女の弘美は上智大学へ入学しました。将来、心理学を学びたいと言っていた弘美は、高校時代からドイツ語を学んでいました。レベルの高い語学教育を受けるため、自ら選んだ大学にストレートで合格したのですから親として、こんなに嬉しいことはありません。上智を落ちたら大学へは行かず、別のことをやると言っていましたので、とても意思の強い子だと思いました。
私は勉強をしろと言ったこともなく、子供が成長し思春期になっても、放任主義に変わりはありませんでした。受験についてもまったく意見せず、弘美が決めたことを後から聞くだけでした。ただ、子供が選んだことは、精一杯やらせてやりたい。そして将来は、自分の好きな道へ進んで欲しいと願っていました。
大学に入学してから、半年くらい経ったある日、弘美が西ドイツへ留学したいと言いはじめました。話を聞いてみると、産経新聞の財団が後援している奨学生の一次試験に受かったということでした。学費や生活費はすべて支給され、応募者も多く狭き門だが、最終試験までいって合格したら、留学させて欲しいと言いました。これまでもそうだったように、しっかりと考え抜いて、自分で決めてから親に報告するだけですから、駄目と言っても、おそらく聞かなかったでしょう。決めたことは、必ずやり遂げる。それだけ意思の強い子です。自分でやりたいことを見つけたのだから、女房が反対するのはともかく、私だけは応援してやろうと思いました。
アメリカや英国などをあわせ全部で20人、西ドイツはわずか4人でしたが、その後の試験にも合格し、弘美は留学生に選ばれました。新聞に写真入りのインタビュー記事が掲載され、子を持つ親として、これほど誇らしいことはありませんでした。とはいえ、不安もあります。今とは違い海外留学なんて、違う星へ行くようなものです。ましてや女の子を、親の手が届かない異国の地へ、たったひとりで送り出すのです。目の前では平気なふりをしても、内心は穏やかではありませんでした。
女房も説得し、翌年19歳になった弘美は、西ドイツへと旅立ちました。海外電話も当時はコレクトコールしかなく、近況を知らせるのは、ときどき寄こしてくる手紙だけです。当たり障りのない、日常を綴った文章も、そのときは唯一の親子のつながりでした。今でも、西ドイツから届いた手紙は、すべて大切に保存してあります。当初は一年の予定だったものの、もらった奨学金を節約し、少しずつ貯めたお金で、もう半年ほど留学を続けることになりました。
ところが、日本へ戻る日が近付いても、一向に連絡の手紙が届きません。ひょっとして、向こうに永住するつもりじゃないのかと、不安がよぎりました。しびれを切らして、コレクトコールで寮に電話をかけると、本人が電話口に出てきました。怪我で右手の骨を折ってしまい、手紙が書けなかったと言うのです。
帰国予定の日、私は羽田まで迎えに行きました。果たして本当に帰ってくるのか、不安は残っていました。手に包帯を巻いた弘美が、ゲートから出てくるのを見たとき、ようやく安堵しました。一年半ぶりにみる我が子は、親の目にもたくましく映ると同時に自立した大人としてもう親の手の届かないところにあるのも実感しました。
この一年半は、私にとっても大きな変化がありました。そのとき私は伊東の別荘を売り、自宅も抵当に入れて、交流磁気治療器の開発にのめり込んでいました。以前から家族は猛反対で、弘美とは西ドイツへ行く前、絶対に無茶なことはしないと約束させられていました。
空港から自宅へと向かう車の中で、まず私は、約束を破ったことを打ち明けなければなりませんでした。

第29話 苦難の開発を支えた医療不信の原体験について
弘美が西ドイツの留学から帰った頃、中川先生のいすゞ病院の近くで、私は交流磁気治療器の開発にのめり込んでいました。これまでも書いてきたように、家族をはじめ私の周りの人間は、すべて猛反対でした。無理もありません。誰が電電公社を退職した技術者に、治療器の認可がとれるなどと考えたでしょうか。しかも開発には、莫大なお金もかかります。黙っていれば年金を貰え、悠悠自適の隠居生活ができるのに、何を馬鹿なことをやっているのかと言われても、世間の常識では反論できません。
実際、当時の銀行で、定年退職した私のような人間に、金を貸してくれるところなど、一つもありませんでした。今とは違って、医療への信頼感も、まだまだ高かった時代です。難しいことは、お医者さんに任せておけばいいという風潮の中、お前に何ができると笑われても仕方ないことです。
しかし、私にとっての医療とは、家族を幸せにしてくれるものではありませんでした。長男を救ってもらえなかった、私自身も糖尿病の薬害で、塗炭の苦しみを味わいました。そして何よりも、妻の4回にわたる開腹手術が、医療への不信感を高めました。もし、こうした経験がなければ、自らの手で治療器を開発しようなんて、考えなかったかもしれません。
認可を受けるまでの苦しい道のりを支えたのは、医療への不信感と、怒りにも似た気持ちがあったからです。
最初に妻が異常出血を起こしたのは、弘美が小学校六年のときでした。主治医の話では、「このまま放置するとガンになる可能性が高い。速やかに子宮を摘出した方がいい」ということでした。手術は盲腸を切るのと同じくらい、2週間もあれば退院できるという説明で、ガンの恐ろしさに比べれば、医師の指示に従うのも、やむを得ないことだったと思います。
義姉に来てもらい、家の面倒をみてもらいましたが、予定よりも延びて退院したのは35日後でした。ところが家に戻ってからも、一向に妻の体調が優れません。それどころか、小水が膣から漏れると言うのです。何のために手術をしたのか分からぬまま、愕然として再入院することになりました。ここから本当の意味で、病院との戦いが始まることになります。いくら説明を聞いても、執刀した医師の話は、要領を得ないものでした。私は直感的に、何かを隠していると悟りました。しかし、当時の大病院で、手術を失敗したなんて認める訳がありません。むしろ彼らの常識では、ひたすら隠そうとするだけです。このまま婦人科にいては、埒が開かないと思い、泌尿器科へ移すようお願いしました。何も措置を施すことができないのに、それでも「認められない」の一点張りで、妻は婦人科から出してもらえませんでした。
このままでは、妻が殺されてしまう――。私は本当に恐ろしくなりました。まだ子供だって小さいのに、こんなことで死なせる訳にはいかないと焦りました。普通にお願いしても駄目なことは分かっていましたので、こうなったら力づくで奪うしかありません。軍隊時代は上官に斬りかかるほど、理にかなわぬことに対して血の気が多い性分です。細かいことは書けませんが、医者と刺し違えるほどの覚悟で、凄みをきかせ妻を取り戻しました。
泌尿器科へ移ったあとも、結局は3度、手術を繰り返すことになりました。その経緯は本にも書いた通りです。しかし、あのまま婦人科にいたら、助けることはできなかったでしょう。わずか二年足らずのうちに、4度も開腹した妻は、本当に痛々しい姿でした。愚痴も言わずよく耐えましたが、それだけに、いたたまれない気持ちになりました。
こうした経験が、私を駆り立てていました。今では医療過誤という言葉もありますが、あの時の私には、助けてくれない医療に対して、自分がやらねばならぬという強い使命感がありました。

第30話 孤独な時代を支えた人たち
証言者…平瀬トキさん
石渡弘三の自伝「己に克て」は、大森で交流磁気治療器の開発にとりかかった、前号までの原稿が残っていました。残念ながら、厚生省から認可を受けるまでの経緯を、開発者自身の言葉で綴っていませんが、その苦難の道のりを、「己に克て」の続編として、証言者の声をたよりに少しだけでも辿ってみたいと思います。
東京都大田区大森北にあるアパート。2階はアパート、1階は事務所になっていた所の1階で、石渡弘三は交流磁気治療器の開発に取り組んでいました。臨床データをとっていた、中川恭一先生のいすゞ病院にも近く、認可を取得したのちは、治療器の工場になった場所でもあります。現在、大森で開発する姿を、実際にみた人は少なくなっています。その貴重な証言をしてくれる方に、インタビューします。
証言者は、平瀬トキさんです。
平瀬さんと石渡弘三の出会いは、戦前にまでさかのぼります。昭和11年、赤坂電話局で同僚として働き、戦後に再会したあとも、開発の時代にとどまらず、治療器の普及や販売にも尽力してこられました。現在も東京都下の自宅に体験センターを開き、ソーケングループの中では、最も歴史のある販売店の一つです。古くからの友人であると同時に、交流磁気治療器が認可を受ける前から、側面でずっと応援をし続けたのが平瀬さんでした。開発に直接関わった訳ではないものの、その経緯を客観的にみてきた立場から、お話をしていただきます。
最初に、大森時代の石渡弘三についてたずねると、平瀬さんはこう答えてくれました。
「おそらく、大森で開発をはじめた最初の1~2年は、石渡さんの人生の中で、最も孤独なときだったと思います。家族は猛反対で、磁気のことなんか聞きたくもないという状況でした。石渡さんを気の毒に思いましたが、家族の気持ちもよく分かり仕方のないことでした。公社の仕事を辞めたあと、園芸や将棋でもやったらいいと薦められたようですが、石渡さんは『そんなことをしたら、俺は死んでしまう』なんて言っていました。
とにかく、あの頃は情熱だけあって、自分の気持ちに真っ直ぐでした。あまり口数の多い人ではありませんが、みていると自分も何かしなきゃいけないという気持ちにさせる人です。当時から、人を惹きつける魅力があって、それは治療器を世に出すという純粋な気持ちが、みんなの心に響いたからだと思います」
孤独な時代を支えた人々…。平瀬さんの言うように、真っ直ぐな志に対する協力がなければ、交流磁気治療器が世に出ることはなかったのかもしれません。平瀬さんは開発の発端となった、中川恭一先生と石渡弘三の出会いも、よくご存知でした。
「あれは昭和49年だったと思います。第1回の磁気と生体研究会の記事が、東京新聞に掲載されました。知り合いから教えてもらった石渡さんは、その日にすぐ、いすゞ病院へ電話をかけていました。当時、院長だった中川先生は、見ず知らずの技術者に、会うような時間がある人ではありません。そんな多忙な中、実現出来たのは、永久磁石ではなく、交流磁気というのに興味を持たれたこともあったと思います。その頃は、まだ手作りの治療器でしたが、先生の『これは革命的な機械ですな』というお言葉が、ものすごく印象に残っています。これは認可をきちんと受けて、世に出すべきだと助言をいただき、それから石渡さんも、本格的な開発を考えるようになりました」
中川先生に加えて、もう一人、石渡弘三の甥である大澤正明さんの存在が、極めて大きな役割を果たしたと言います。中川先生が試作器を使って臨床データを取る手伝いを大澤さんがする一方、石渡さんは製品の開発や認可に必要な条件を整える。3人がそれぞれの役割を担って、開発へのスクラムを組むことができたのです。中川先生、大澤さん以外にも手を差し出してくれた人がいました。
「佐藤さんは、以前から石渡さんのことをよく知っていて、仕事ぶりや人間性を高く買っていました。だからこそ、大森の事務所を提供し、開発を支援してくれたのだと思います。こうして開発への役割分担ができ、石渡さんは絶対にやるという覚悟を決めたのだと思います。それからは、大森まで毎日通って、コツコツと作業をしていました。ひょうたんの形を工夫して、木の枠でいろいろ作ってみたり、とても几帳面な仕事ぶりでした。ひとりで開発していたとき、2度ほど、あそこで正月を迎えましたが、私も年末になると掃除に行って、正月の飾りつけなどをやっていました。いま思えば、そんなことまでしなくてよかったのかもしれませんが、とにかく情熱を持って、ひとりで頑張っている姿をみると、何かお手伝いしたいという気持ちにさせられるのです」
開発の経緯をつぶさに見てきた平瀬さんは、今でも簡単な修理なら自分でできるほど、治療器の技術的な部分にも精通しています。そんな平瀬さんが、認可を受けて全国に代理店ができたころ、石渡弘三が語った言葉を、今でも大切に心にとどめていると言います。
「あるとき石渡さんが、『俺ひとりでは、ここまで来れなかったなあ』と、本当にしみじみ、言ってくれたことがありました。大森にいた頃は、本当に孤独で辛かったと思います。
治療器の開発は石渡さんの情熱がなければできなかったことです。本当に、よく頑張ったと思います」

第31話 「苦難の道半ばにも喜びの声」
証言者…平瀬トキさん
前話から引き続き、戦前の電電公社時代からの同僚であり、開発を側面から支えた、平瀬トキさんの証言です。
治療器の改良と、認可を受けるために必要だった臨床データの収集を進めていた頃、石渡弘三をはじめ開発に携わっていた人々にとって、忘れられない出来事がありました。ソーケングループの中で、最も歴史のある販売店であり、現在も多くのお客様と接している平瀬さん。その平瀬さんにとっても、この出来事は喜びの声の原点になっていると言います。
「最初におばあさんが、てんかんに悩む孫を連れて、東京に来られたと思います。まだ認可を受ける前でしたが、中川恭一先生の指導に従うということで、石渡さんが試作中の治療器を1台提供しました。これがきっかけで、大きな喜びに広がっていきました。本当に治療器を世に出すことができるのか、不安もあった時期だけに、この出来事は石渡さんにとって、ずいぶんと励みになったと思います」
この経緯は中川先生の著書『続・磁気健康法』の中で、交流磁気治療器を紹介するエピソードの一つとして、取り上げられています。
まずは出来事の端緒について記した部分を、著書の中から引用させていただきます。
「昭和54年4月5日、私を訪ねて北海道から、おばあさんが9歳になる孫の手を引いてやってきた。その少年は4歳半を過ぎてから、てんかんの発作に見舞われるようになったという。薬の副作用で、医師は『あと3年も生きられればいい』と言ったらしい。両親はあきらめているが、おばあさんはあきらめがつかないという。突然、私のところに現れたのであるから、役に立たなくとも致し方ない。といえばそれまでである。しかし、北海道からわざわざ飛行機に乗って孫を連れてきた、おばあさんをそのまま帰すことに哀れさを感じた。そのとき、ふと頭に浮かんだのが、治験中の交流磁気治療器のことであった」
使い方や注意点など、十分に説明を受けたうえで、1台の治療器を北海道に持ち帰りました。それから2カ月後、おばあさんから経過を報告する手紙が届きます。これを契機に、東京と北海道の間で手紙の交換がはじまりました。その内容を読むたび、平瀬さんも勇気づけられたと言います。最初の手紙が、中川先生の本に紹介されていますので、その一部を引用しましょう。
「おばあさんは、それから何度となく治療経過を手紙で知らせてきた。第一報は次のようなものだった。先日、A病院で脳波の検査をしていただきました。病院の先生もちょっと意外そうな顔で、小さい波が2つあるだけで、それもケイレンする波ではないとおっしゃいました。機械を使うようになって、寝つきがとてもよくなりました。そして、朝もバッチリ目があくので、家中大喜びです」
このあと、少年は様子をみながら薬を減らし、発作にも悩まされなくなります。手紙の交換は2年近く続きました。最後に届いた手紙では、5年生になった少年が、ほかの子と同じように外で真っ黒になって遊び、のびのびと育っている姿を、心から喜ぶおばあさんの言葉が綴られています。平瀬さんは少年の出来事から、石渡弘三が得たものを、こんなふうにまとめてくれました。
「開発を進めていた、たった1台の治療器から始まったあの出来事は、石渡さんに大きな力を与えたと思います。どんなに辛い道程でも、今やっている開発は、必ず世のため人のためになることを、確信させてくれました。あれがお客様の喜ぶ声を聞く、原点になったような気がします。認可をとったら、一人でも多くの人に伝えたい。みんながそんな夢をみていた時だったから、余計に嬉しく感じたんでしょうね」
こういった出来事の積み重ねで、今のソーケンメディカルがあります。認可を取った後の我が社の「電気磁気治療器」の活躍は皆さん、ご存知の通りです。
今後もより一層、活躍が期待される、治療器を石渡弘三は創造したのです。。。
開発者の物語…読んでいただきましてありがとうございました。

